ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私は若い頃一時期、ハイネという詩人に傾倒していました。ユダヤ人の詩人です。大学生の頃から50以上の雑誌に詩やエッセイ、文芸評論を投稿していました。
しかし、なかなか日の目を見ることがなかったのです。ある時、カンペ書店という本屋さんに行って本を物色していると店の主人がやってきて「この詩集はいいですよ。」と勧めたのです。見るとそれはハイネの詩集ではありませんか。しかし、彼は自分の正体を隠して「どこが良いんですか?」と聞いたのです。主人は一つ一つ説明したのですが、ハイネはその一つ一つをすべて否定しわざとこき下ろしたのです。すると店主はいよいよ熱くなり「この詩の良さがあなたにはわからないんですか。私だったらこの作者の詩をもっと世に紹介するために詩集を出してあげたい程です。」と宣言したのです。一旦自宅に戻ったハイネは書きためていた作品の束を持参していったんです。「先ほどは失礼しました。私がハイネです。出版よろしくお願いします。」
やがて、カンペ書店から出た詩集が大ベストセラーとなりハイネは文壇に認められていくのです。彼を世に送り出したのは、彼のことを熱烈に愛する店主でした。この主人の後押しなしにハイネの成功物語は始まることはできなかったのです。
ローマ人への手紙3章23,24節
ところで、この世界を造られた主人である神様はあなたを熱烈に愛しておられます。あなたに栄光ある人生を送ってもらいたいと考え、誰よりもそれを願っている方です。そして、願っているだけではなくその祝福を与えるためにイエス・キリストを遣わされました。
聖書の中にこう書いてあります。
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるのである。
神が用意された栄光の祝福
第1に、罪は神が用意された栄光の祝福を受け取る資格を失わせるということです。
私は栄光という言葉を聞くとオリンピックや世界選手権など勝利者になることがイメージとして浮かんできます。そして、このような権威ある大会では勝敗を判定する公正なる審判がいますね。選手たちはこの審判によって勝利の宣告を受けなければなりません。
ところで、アスリート達はもう一つ別の審判をも受けなければならないのです。それはドーピング検査という審判です。ドーピングとは薬物などの力を借りて運動能力を引き上げる行為です。もしドーピングが判明すると、どんなぶっちぎりで勝っていたとしてもそれは取り消されます。なぜならそれはアンフェアな事です。しかも、選手の健康を損ねることにもなりかねないのです。つまり、ドーピングとはズルにして危険な行為なのです。なのでこれを厳しく検査する必要があるのです。
このドーピングの方法は年々巧妙になっています。例えば、自分の血液をあらかじめ抜いておいて競技の直前に輸血するという方法です。これによって体内の赤血球の量が増大するため心肺能力が飛躍的に向上します。体の中に入れるのは薬物ではなく、もともと自分の体がつくった血液です。なので見破ることが難しいのです。そこで検査機関は通常の平均赤血球の量との比較も検査項目に入れるようにしているのです。どんな小さな不正をも見落とさないように検査項目は年々増えて今や数百以上です。そしてこの検査はどんな有名アスリートも拒むことはできません。拒んだ瞬間にドーピング陽性の判定になります。そして勝利は剥奪されます。そして2回ドーピング陽性が出た場合は選手資格が永久剥奪されるのです。つまり選手生命が絶たれてしまうのです。
そこまで厳しい検査と処分があるのは偉大なる大会で優勝したことで得られる栄光の祝福が大きいものであるからです。それは名声が全世界に広まることです。更に、多くのスポンサー企業が支援します。CMにも出るでしょう。その後の人生がまったく別のものになるからです。受ける栄光が偉大なものであればあるほど、それを不正な手段で得ることに厳しくなるのは当然のことです。
実は神は人間にオリンピックとは比べものにならない栄光の祝福を用意し、それを与えたいと願っている方です。そもそも人間は神が栄光の祝福を与えるために造られたのです。しかし罪が人にこの栄光を受ける資格を剥奪させているのです。
すべての人は罪人
第2に、すべての人は罪人であるということです。
私が本格的にキリストの福音を聞いたのは高校生の頃です。この全宇宙をお造りになられた神がおられるということを私は聞かされました。その時、心の中で葛藤がすぐに起こったのです。というのは私の心の中に、神が神であることを認めたくないという思いがあったからです。もし私がそれを認めたら、私がすべき事を私以上に知っている方がいるということになります。更にその方は私が何をすべきかを私に要求する権利があることになります。更にこの神と和解するには神が提示する条件に従わなければならないということにもなります。それはとても受け入れたくないことに思えたのです。
しかし、この葛藤を見事に描写する聖書の箇所を後に見つけました。最初の人間アダムとエバは悪魔に吹き込まれた嘘を信じた時に心の中に葛藤を感じだしたのです。つまり悪魔は大嘘をついたのです。『神は人間の自由を制限し人を騙そうとしている。そんな神なんか捨ててしまえ。そうすることによって人間は自由になれる。』真っ赤な大嘘でした。罪の本質とは一体なんでしょう。神に対する反逆する姿勢です。そして、この神に対する反逆の姿勢は、神に対する間違った認識が生むのです。つまり罪とは神に対する疑いなのです。
神を信用できないものと考えること。神に対する不信仰。これが罪の本質なのです。
キリストの死によってすべて赦された
第3に、神はそんな疑り深い人間のためにイエス・キリストを十字架にかけて、私たちの罪の全てをイエスのいのちで支払ってくださいました。この救い主イエスの死と復活により私たちの罪は全て赦されるのです。
そして、この十字架によって、神が考えの狭い方なのではなく私たちを愛している方であり、本当の自由を与えたいと願っている方であるということがはっきり分かるのです。
先日、会社を倒産させてしまい借金苦に苦しんでいた方の手記を読みました。生活苦の中で奥様のご両親、そして奥様までもが次々に倒れて亡くなられたのです。途方にくれる彼のもとに弁護士がやって来ました。彼の話によると義理のご両親の遺産が丸々奥様に引き継がれ、奥様の遺産が丸々一人ぼっちになった彼のところに転がり込んだというのです。大切な人の死によって彼は莫大な財産を受け取ることになりました。
聖書は、キリストを信じる者は値無しに義と認められると言います。この“認められる“というギリシャ語ロギゾマイ※注という言葉は、自分の収入ではないものが自分の口座に振り込まれるという意味を持っている言葉です。キリストの死によってあなたにあなたの収入ではなかった罪の赦しと永遠のいのちが振り込まれるのです。
どうぞこのイエス・キリストを信じてください。そして、キリストの義という遺産を受け取ってください。心からお勧めします。
※注
【お詫びと訂正】
上記メッセージ(10分00秒あたり)で「値なしに義と認められる」(ローマ3:24)をロギゾマイ〈ギ〉と語っていますが、この箇所のギリシャ語はロギゾマイではなくディケイオウ〈ギ〉で、「義と宣言する」という意味です。なお、その12節後(ローマ4:5)の「義と認められます」が、ロギゾマイ〈ギ〉で意味は本文の通りです。本編において説明が不足していましたことを深くお詫びし、訂正させていただきます。
(ローマ3:23-24)