#1010 世にも類なき良き物語

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

さて、来年の今頃、日本中があるイベントで熱狂しているはずです。東京オリンピックですね。
チケットの売れ行きを見るとかなりの人気が予想されています。
多くの人が4年に1回のスポーツの祭典を生で見たいと思うのは、おそらく勝利の物語に感動したいという欲求があるからだと思います。
応援している選手が勝つとそこに自分を投影してなんだか勇気が湧いてくるんですね。
というわけで、私は今日、すべての人に勇気を与える実話に基づく物語をお伝えしたいと思います。それは、キリストが成し遂げられた歴史的事実の物語です。
聖書にこう書いてあります。

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿を持って現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。

今日はこの箇所からキリストがしてくださった3つのことをご紹介しましょう。

芝居がうまかったので役者をやめた

第1に、キリストは神のあり方を捨てて、人間になり、しもべの姿となって生涯を全うされたということです。
そして、それは、この世の中でどんなに軽んじられている人にも勇気を与えるためであるのです。
先日、私は黒柳徹子さんのインタビュー記事を読みました。彼女が司会を務める『徹子の部屋』は世界最長寿番組としてギネスブックに記録されています。
ところで、彼女はテレビや舞台で女優さんとして活躍されていたのですが、『徹子の部屋』が決まった時、役者としてテレビ出演するのを全部やめてしまったそうです。というのは、彼女は非常にお芝居が上手かったからです。
ある時、酔っ払いの役をしたそうですが、撮影が終わってから本当にお酒を飲んで演技したという噂がたつのです。「そんな不真面目なことはしません」と言い返すのですが、誰も信用してくれません。それくらい演技が上手かったんですね。
それで、悪役の芝居に出ていたら『徹子の部屋』に来るゲストは、きっと彼女を悪い人間と思うのではないかと考え、やめてしまったというんです。

必要がないのに人となられた神

ある時、NHKの朝ドラの『繭子ひとり』という番組でおばさん役をやったのでした。
青森から上京して家政婦をやっている中年女性の役です。分厚い綿のちゃんちゃんこを着て、髪の毛はチリチリのパーマ、厚手の眼鏡をかけて、ほっぺたも赤くしたのです。
役の格好のままNHKの食堂に行ってプロデューサーと杉良太郎さんに挨拶したら、二人ともチラッと見て「はぁ」と言ってまた二人で話している。黒柳さんと分からないんですね。
そのままその姿で食堂に行きコーヒーを頼みました。ウエイトレスはムッとした顔で水の入ったコップをガチャンと置いたのです。
黒柳さんはびっくりしました。というのは、いつも彼女はにこやかに「徹子さん、アイスになさいますか、ホットになさいますか」と聞く親切な人であったからです。
中身は同じ人間です。しかし、外見が田舎から出てきた勝手のわからないおばさんだと、こんなにもぞんざいに扱われるのです。
冷たくされた時、この役の人物が良くわかりました。と同時に、この役の人物に対してなんとも言えない慈しむ気持ちが湧いてきたというのです。
イエス・キリストは人となる前、神でした。人となった後でも神です。しかし、そのあり方においては神の栄光を人間の弱さで覆ったのです。
人にならなくても人の気持ちは分かる方です。何しろ神は全知全能なのですから。
しかし、弱い、身分の低い、酷い扱いを受ける人の立場に立つことによって、今、現にその様な扱いを受けている人にエールを送っておられるのです。
「あなただけではない。わたしもそのようにされたのだ」。あなたのことを理解しているキリストがいるのだと励ます方なのです。

人の手を借りず、罪を取り去った

第2に、キリストは自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまでも従われたことです。
十字架の死というのは罪人の代わりに受ける神の刑罰としての死のことです。
今から20年ほど前、知床の自然保護地区でボランティアをしていた方がこんなことをおっしゃっていました。
実は、知床の自然保護地区においては独自のルールが幾つかあるのです。
その一つは、地区内で関係者が鹿の遺骸を見つけた場合、その見つけた人がそれを片付けなくてはならないというルールなんです。
何故そんなことをしないとダメなんでしょう。もし、それを放置していると肉の匂いを嗅ぎつけたヒグマが山から下りてくるからです。
鹿の死体は恐るべき飢えたるヒグマと人間が遭遇する確率を著しく高めるものとなってしまうのです。
それで、見つけた人はすぐに片付けなければなりません。近くに仲間がいなかったら、たった一人で運ばなければならないのです。
しかし、大人のエゾシカは巨体なのです。腐った肉にはウジもわいていることでしょう。
猛烈な臭いが発散していることでしょう。何よりとてつもなく重いのです。それを身に背負って車に運び上げ移動させるんです。
このように、死骸を処分する人がいるので自然公園はいつも美しく、そして、安全が確保されているのです。
キリストはご自分の身に強烈な臭みを放つ醜い罪を背負って、たった一人誰の手も借りることなく、神の目にも人の目にも見ることのできない永遠の彼方に罪と死を持ち去ってしまった方なのです。
それが、キリストの十字架の死の意味なのです。

死んで終わりではない

第3に、神はこの方を復活させ高く上げられました。よみがえらせた上で天に引き上げられたのです。
キリストは死んでおしまいの方ではありません。よみがえられたのです。それによって、十字架の御業が成功だったことを証明なさったのです。
あなたの罪の償いとしてのキリストの犠牲が100パーセント神に受け入れられたことを証明なさったのです。
そして、今やキリストは死んだキリストではなく、生きて今も働くキリストとしてあなたをエスコートすることがおできになるのです。
アフリカに行った宣教師リビングストンはイギリスのグラスゴー大学の学生たちに講演したのでした。
壇上に上った時、彼の体は30回近く罹ったマラリアなどの重病によってやつれ果て、そして、左腕はライオンに噛み砕かれて垂れ下がっていたのです。
彼は言いました。「私がアフリカへ行った時、現地の人々の言葉が何も分からず、そして、しばしば、あの人たちは私を敵対視してきました。しかし、そんな中で何がずっと私を支えてくれたかお分かりですか。よみがえったイエス・キリストなのです。」
キリストは死んでおしまいではありません。よみがえって今も生きておられる方です。
如何でしょう。あなたを愛し、死んでくださるくださることまでしてくださった方、よみがえった方がイエス・キリストなのです。
どうぞ、あなたもこのキリストを信じ、罪の赦しをいただいて、永遠のいのちをもらってください。心からおすすめします。


使用CDジャケット
国分友里恵:この人を見よ

今日のみことば
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての姿を持って現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
(ピリピ2:6-9)