ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
最近、エジソンが高齢者の皆さんに注目されているそうです。84歳まで現役の発明家であり続けていたからです。
彼は歳を取ることに全く無頓着でした。若い時からの発明への情熱を維持し続けたんですねぇ。生涯に1,300もの発明、14の会社を作り、研究所が置かれていたメロンパークは今ではエジソンという地名に変わっています。
しかし、彼の少年時代は大変でした。小学校に入学しましたが『1+1=2』と教えられても「1個の粘土と1個の粘土を合わせたら大きな1個の粘土になるのになぜ2なの?」とか「アルファベットのAはどうして“ビー”と発音しないの?」とか思ったまんまを質問するのです。それでとうとう先生から「君の頭は腐っている。」と吐き捨てられ、校長からも「皆んなの迷惑になる。」と言われ小学校を3ヶ月で中退してしまうのです。
しかし、エジソンには強い味方がいました。お母さんです。先生が見捨ててもお母さんは彼を見捨てませんでした。彼の疑問に寄り添い、答えられない疑問には答えてくれる人を探して一緒に聞きに行ってくれたと言われています。この惜しみない愛と見守りがエジソンをひねくれた心になることから守ったんです。
ところで聖書によるとあなたにも協力な味方がいると語っています。それはイエス・キリストです。聖書はこう語っています。
そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。
ここにはイエス・キリストがしてくださった2つのことについて注目して紹介されています。
動物になって生きた人
第1に、キリストは神であられたのに血と肉を持つ人間となられたということです。
先日、私は2016年のイグノーベル賞生物学賞を受賞した実験記録の本を読みました。タイトルは『動物になって生きてみた』です。イギリス人のチャールズ・フォスターという人が書きました。
この人は獣医師であり、且つ、弁護士で、大学で倫理学を教える哲学者であり、雑誌のコラムニストでもある方です。オックスフォード大学のフェローとして多様な仕事を続けている天才的な人なんですね。
彼は動物になって生きてみたらどんな体験を持てるんだろうかということに興味を持ちます。そして実際にアナグマ、狐、赤鹿、アマツバメになって生きようとし、その視点から見えてくる世界を描写してみたのです。
例えば、アナグマとして生きていく章では、まず巣穴を本格的に掘り始めるところからスタートさせ、何週間もそこで泊まり込むのです。ミミズを生で食べ、四つん這いのまま川まで降りて行き、ペロペロと舌で飲みます。雨が降っても家には戻らず、川や地面に落ちている食べれそうな物は何でも食べて行きます。例えば、カタバミ、野生のニラ、道路でぺちゃんこになっていたリスの死骸などです。
よくこれで病気にならなかったものだと感心します。いや感心を通り越えて読んでいるうちに頭が変になってきそうです。彼は狐にもなってみるのです。彼は都会の狐のとして生きるためにネズミを追って街を這いずり回るのです。人間が罠を仕掛けずに4本足歩行ですばしっこいネズミを捕まえてられるはずがありません。しかし、彼は何時間もこの方法を試してみるのです。何百回も挑んで獲物が目にはいった回数は5回だけです。
ところで、大の大人がそんな事をしていたら周りの人々は心配して集まって来るのです。彼は自分のことを取り留めもなく説明しようとしますが誰も理解できません。それで、警官が来る前に逃げ出すのです。何故でしょう。人間なのに狐のようになって生きることを本気でやるなんておかしな事だからです。それは壊れた人がやる事だという訳です。
人となられた神
正直、私にはそういう事をしてみることに何の意味があるのか理解できませんでした。だから読みながらただただ呆れるばかりなのです。
しかし、聖書はもっと呆れるような事を語っているのです。この全宇宙をお造りになった神が人間になったというのです。人が狐のようになっても被造物が別の被造物になっただけです。
しかし、神が人になるというのは作者が造られた被造物の姿に落ちぶれるということです。そんなことは狂気の沙汰です。しかし、神はそれをされたのです。何故でしょう。あなたを愛しているからです。
愛するとは具体的にはどういうことかをこの歴史の中で実際にして、見せて、そして、届けるためにキリストは人となってくださいました。人と同じ立場に下りて寄り添うことによって愛とはこういうことなのだということを示してくださったのです。
江戸時代のオランダ人宣教師
第2に、キリストは人となることで人の側に立った神の立場に身を置いたのです。これによって人類は最強の味方を得ることになったのです。
幕末、ペリーが黒船に乗って日本にやって来ましたね。その6年後、日本人にキリストを伝えるためにアメリカから数人の宣教師がやって来ました。その中の一人はフルベッキというオランダ人です。
彼はオランダ人なのにアメリカの教会から日本に派遣されてやって来るのです。彼が日本に着いた頃はまだ江戸時代で、キリストを伝えることは恐るべき罪とされていたそんな時代です。そこで彼は長崎で日本の若者達に英語を教えながら聖書を教えるチャンスをじっくりと待っていたのです。
ところで当時、日本は欧米に対して非常に不平等な条約を押し付けられていました。この不平等条約の効力期限を翌年に控えた時、日本は岩倉具視を団長とする使節団が結成され、一年10ヶ月にわたりアメリカとヨーロッパを見聞することになったのです。これは単なる物見遊山ではありません。あくまでも条約改正の地ならしの意味があったのです。この時、欧米の外交術が分からなければ上手く丸め込まれてしまうだけです。しかし、オランダ人でありアメリカでの生活を経験しているフルベッキは欧米のどこをどう突けば良いかということを教え子の大隈重信を通して岩倉具視に伝授していたのです。
キリストによる完全な罪の赦し
一方的に相手のペースにならずに欧米の世界を説得するためにどのようにすれば良いかということを何故伝えることができたのか。元々、欧米人だからです。しかし、彼は日本の立場に立って味方となってその知恵を授けたのです。そしてこの知恵が大いに力となったのは言うまでもないことでした。
キリストは悪魔のやり方を熟知している神の御子でした。このキリストが悪魔の口を封じるために完全な罪の赦しを与えてくださったのです。それは、罪なきキリストの死と復活により与えられる救いです。
この方は復活して今も生きておられる方です。そしてこの今も生きてるキリストはあなたにとって最強の味方なのです。どうぞ、今日こそこのイエス・キリストをご自分の救い主として信じ受け入れてください。心からお勧めいたします。
(ヘブル2:14-15)