#1019 自ら私の罪を負ったキリスト

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

先日私は、作家の村田喜代子さんが書いた『木炭日和』というエッセイを読みました。
彼女の家には、部屋という部屋に木炭が置いてあるんです。それでお客さんが「何かのおまじないですか?」と訊かれることもしばしばだそうです。まじないではないんですね。
友人が送ってきた備長炭を置いてから、部屋のにおいが炭の香りに置き換わり、呼吸するのがずいぶん楽になった、というんです。
凝り性の彼女は、犬小屋の中にまで炭を置きました。すると犬が、うっとりしながら炭をかじるというのです。
実は彼女の犬はアトピー体質で、ひどい皮膚炎を患っていました。そして動物病院を転々とするのですが、一向に良くならなかったのです。
ところが4、5日して、ふと犬を見るとうれた皮膚がすっかり乾いています。薬をやめて観察していると、一か月で完治したというんですね。
以来、木炭は彼女にとって健康グッズとなり、家の中の全部の部屋に木炭が置いてあるっていうんですね。

我が家のいやしは聖書のことば

ところで、我が家には聖書のことばがあっちこっちに掲げられています。玄関だけで、四か所も聖書のことばが張り出されているんです。
トイレの中も、書斎の中にもみことばが貼ってあるんです。聖書のことばは、わが家の住民にとっては最高のいやしとなるからです。
今日はそんな聖書の中から、一か所お読みいたしましょう。

キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。

ここにはキリストが十字架に疲れた理由が三つ書いてあります。

絶望のときに慰める本

第一に、私たちの傷が、キリストの打ち傷によって癒されるためです。傷が傷を癒すというのです。
私は先日、頭木弘樹さんの「絶望読書」という本を読み、たいへん感銘を受けました。
彼は大学三年のときに難病にかかり、ドクターから「就職も大学院進学もあきらめて、親に面倒を見てもらいながら一生を送るしかない」と宣告されてしまいます。
彼にとって絶望とは瞬間ではなく、期間なのです。未来に対して何の光明も見いだせず、うつうつとした気持ちで入院していたとき、お見舞いに来た友人たちが持って来てくれる前向きな本が、彼には苦痛以外の何物でもなかったというのです。
心遣いはありがたいが、心がついていかず読めば読むほど気持ちが沈んでく良い話。これらはかえって彼の心を苦しめるものでしかありませんでした。
では、何が彼を慰めたんでしょう。絶望的状況に置かれてる人の本だっていうんです。あるいは絶望している人物が主人公であるような小説です。
彼にとってはドストエフスキーがそれでした。なぜそんな暗い本が良かったのかというと、絶望的なところに置かれている人の本は、絶望している自分の心に寄り添ってくれたからだというのです。
私はこのことが、痛いほどわかるような気がするんです。人生のどん底で、明るい曲や、たわいのない音楽は、かえって私をいらだたせたことをよく覚えているからです。

キリストの十字架があなたを癒す

ところでどんな絶望よりも、深刻な絶望が十字架にかけられたキリストの姿の中に見出すことができます。
なぜならキリストは、同胞から憎まれ、友から裏切られ、神からものろわれたのですから。
最も正しい方が、めちゃくちゃに壊されていく十字架の光景は、私をめちゃくちゃにする力が、すべて吸い取られていった光景でもあるのです。
キリストの十字架は、あなたを癒す神の力となるのです。

人と神との正しい関係

第二に、キリストの十字架は、キリストを信じる人が罪を離れ、義のために生きる資格を与えるものです。
罪とは何でしょう。あなたの造り主である神から離れて生きることです。
では義とは何でしょう。あなたの造り主である神と、正しい関係に入り、神とともに生きることなのです。
今、アメリカと中国の関係が非常に悪化していますね、互いに一歩も引きません。それで物のやり取りである貿易が関税という障壁で、どんどん縮小して行っています。
神と人との関係も同じです。人は罪のゆえに、神との交わりが破綻しているのです。それで、神が人に与えたい祝福を受けそこなっているのです。
義に生きるとは、神と正しい関係を結んで生きることです。
そのとき、人は神から無制限に恵みをいただくことができるのです。

火事で二重に傷を負った夫

第三に、キリストは私たちの罪を、ご自分の身に負うために十字架につかれました。それは愛によるものなのです。
マックス・ルケードという人がこんなことを語っています。それは名医として有名なマックスウエル・モルツ博士から聞いたことです。
あるとき、モルツ博士の病院にひとりの女性が助けを求めてやって来たのです。
彼女の夫は、顔にひどいやけどを負っていました。彼は、火事のあった家の中に取り残された自分の両親を助け出そうとして、大やけどを負ってしまったのです。
しかも両親を救い出すことはできませんでした。そのため彼は、二重に傷を負うことになったのです。顔の傷と、心の傷です。
彼は神に罰を受けているような考えに取りつかれてしまい、部屋に閉じこもって出て来れなくなってしまったのです。
モルツ博士は「何とかできると思いますよ」と伝えました。何しろ腕の良い形成外科なのです。ご主人のやけどの跡を消すことができる、と言ったのです。
ところが彼女は思いがけないことを言いました。
「先生、違うのです。夫のやけどを直すのではなく、私の顔に夫と同じ傷をつけていただきたいのです。夫の心は堅く閉じています。顔も心も傷だらけで、自分はどうしょうもないと思い込んでいるのです。しかし私が同じ傷を負ったら、彼は心を開いてくれるかもしれません。」

究極の自己犠牲に示される愛

モルツ博士は断りました。しかし、何とか彼女に協力したいと思い、家にまで行ったそうです。
ノックしました、「こんにちは。医者のモルツです」。しかし返事はありません。
「ご主人、いらっしゃることはわかっています。私は皮膚移植を専門とする医者です。お力になれると思いますよ。どうぞ出てきてください。」
しかし、物音一つしなかったそうです。そこでドクターが言いました。
「奥さんは私のところに来て、あなたの傷と同じものを自分の顔につけて欲しいと言いました。そうしたら夫は部屋から出て私を受け入れてくれるに違いない、と言って。」
しばらくすると、とうとう扉が開き、彼が出てきたのです。その人は手術を受け、新しい人生に入ることができたんです。
長い間閉じこもっていた彼に、何がこの変化を起こしたのでしょう。想像を絶する愛ではありませんか。一人の女性の自己犠牲の愛が、彼の心を溶かしたのです。
キリストが、自ら十字架の上で私たちの罪を負われたのです。それは私たちを暗やみから光の世界に移して、罪の赦しを与え、永遠のいのちを与えるためです。
それは人知をはるかに超えた神の愛です。この神様の愛が、今あなたに注がれているのです。
どうぞ、十字架の上で死に、墓に葬られ、三日目によみがえったイエス・キリストをご自分の救い主として信じてください。心からおすすめします。


使用CDジャケット
大和田広美:永遠の約束

今日のみことば
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
(1ペテロ2:24)