#1004 真実をもって説得する神

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

ところで、私は原稿書きをする時、スターバックスを利用することが多いです。
スターバックスは世界中に展開しているカフェですね。この会社の最高責任者はハワード・シュルツという人です。
彼は自分の本の中でこんな事を言っています。スターバックスが売るのはコーヒーではない、第3の場所を売っているのだ。
これはどういう意味でしょう。アメリカでは第1の場所というと家庭です。第2の場所は職場です。そして、両方ともとても大切な場所なのですが、ずーっとそこに居続けることで人によっては煮詰まってしまうことがあり得るのです。
シュルツ氏は自分ひとりきりになれる場所を提供して、自分に落ち着きを取り戻してもらおうと考えたんです。
コーヒーというのはホッとひと息つくための小道具にすぎないんですね。
一杯380円の費用はコーヒー代ではなく余裕のない心に避難場所を提供するための費用なのだというのです。
さて、イエス・キリストも心騒ぐ人間に対して次のように語りかけられました。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

ここらか、3つのポイントで聖書メッセージをお届けいたしましょう。

自分の恩人に良くするということ

第1に、心を落ち着ける秘訣は神を信頼することです。ある方は神を信じることにとても抵抗を感じられるようですね。
別に困ってないのに、なぜ神を信じなければならないのか。そんなのは弱い人間がすることだという訳です。
そこで、私は別の言葉に置き換えて質問したいのです。
自分に対して良くしてくれた人に感謝したり、尊敬したり、信頼したりするのはおかしなことでしょうか?と。
昨年、私はユダヤ系アルゼンチン人の撮った『家へ帰ろう』という映画を観て、とても心打たれました。
監督がこの映画を撮るきっかけは、カフェでたまたま聞いた話に閃きを受けたからだというのです。
それは、70代のユダヤ人男性の話です。何でも90歳になる自分の父親が何を思ったか、周囲の反対を押し切って70年振りに自分が生まれたポーランドへ帰ったというのです。
それは、70年前に自分をナチスの迫害から守ってくれた、命の恩人である旧友を探し出して礼を言うためでした。
しかし、こっちが90歳だったら向こうだって90前後です。生きてるのか死んでるのか全然誰にも分からない話ですが、彼は一人でポーランドに行って、とうとう旧友を探し出したというのです。

神を信頼するのは当然の態度

どうして、そんな高齢になって無茶な海外旅行を強行したのでしょう。いや、高齢で時間があまり残っていないからこそ彼は出掛けたのです。
彼が自分を友として愛し、助けてくれたからこそ今の自分がある。もし、あの時、助けてくれなければその後の人生で経験できた全ては無かったのです。
彼の人生は、この旧友抜きでは成り立たないものでした。だから、一言、直接礼を言いたい。そうすることは人として最低限必要なことだと考えたのです。
監督はそれを側で聞きながら、とても美しい物語だと感じたのです。
そして、私も同感です。人が自分の命の恩人に真心から感謝と尊敬を込めて礼を言うということが、人として美しい、そして、あるべき態度であるとするなら、人が自分の作者に対して、自分を生かしておられる神に対して信頼し礼拝するのは、あるべき当然の態度と言えるのではないでしょうか。
神はあなたの一呼吸一呼吸を支える命の恩人です。あなたの作者なる方なのです。

「真実」と「信仰」は同じ単語

第2に、この神と信頼関係に入ることが心落ち着かせることになるのです。ところで、信じるとか、信仰とか、信頼というギリシャ語は、『ピスティス』と言います。そして、この言葉には真実という意味もあるんです。ギリシャ語では“真実”と“信仰”が同じ単語なのです。
太宰治の代表作に『走れメロス』という名作がありますね。猜疑心の塊であるシラクサ王の暗殺に失敗したメロスは死刑判決を受けます。
しかし、妹の結婚式に出るために3日間の猶予を願うのです。王はメロスの親友セリヌンティウスを人質に取ることで許可を与えるのでした。
妹のいる村に向けて出発をしようとする時、王はメロスの耳元で囁くんです。「もし、遅れて帰って来たらお前の罪を許すぞ。」
メロスは片道40キロの村を目指して必死で走ります。一目花嫁姿の妹を見たメロスは、大急ぎでUターンして戻ろうとするのです。
ところが、疲れが溜まり体調が崩れ病気になり、そして、洪水で橋が流され、その上、追剥に遭ってしまうのです。
次から次へと想定外のトラブルの中でフラフラになりながら処刑場に着くと、今まさに友人が自分の身代わりに処刑されるところでした。
メロスは大声で止めに入り、そして、友に向かって言います。「俺を殴ってくれ。そうでないと君を抱擁する資格が自分には無いのだ。実は道中一度悪い考えがよぎった。君を裏切る考えが一瞬浮かんだんだ。こんな俺を殴ってくれ。」

神が真実だから神を信じる

友人はメロスを殴るんですね。そして、「今度は僕を殴ってくれ。この3日間のうち一瞬君は来ないんじゃないかと疑った。一生に一回だけ初めて君のことを疑った。さあ、僕を殴ってくれ。そうでないと君を抱擁する資格は自分には無いんだ。」
メロスは殴るのです。そして、二人は抱擁し合うのです。世の中に信じれるものなんかないと思い込んでいたシラクサ王は、この光景を見た時、突如として信じれるものを見出しメロスを許すという物語です。
ところで、どうして王は猜疑心を捨てて信頼というものを認めたのでしょう。また、信頼というものにかけてみる気持ちを起こしたのでしょう。
二人の真実を見たからです。実は、信頼や信仰は、その信仰の対象が如何に真実であるかを知ることによって芽生えていくものなのです。
そして、これこそは真実と信仰が同じ言葉である理由なのです。神を信じなさい。それは、神がこの世の誰よりも真実な方であるからです。

神を認めることによる平安

第3に、イエス・キリストにおいて神を認めることによって人は平安にありつくのです。
というのは、目に見えない神の真実は目で見ることができたイエス・キリストの実際の行動によって明らかになったからです。
キリストは人となられた神です。ですから、神とはいかなる方であるかはキリストの行動を見たら分かるのです。
キリストは罪人を愛して十字架にかかり聖い血を流してくださいました。
それは、あなたの罪を赦すためでした。また、キリストは墓に葬られ、三日目によみがえられました。
こうして、死を滅ぼしたことを立証なさったのです。
だれでもキリストを信じる者は、神の鉄壁の守りの中に入れられるのです。そして、これこそは平安の根拠となります。
どうぞ、あなたもイエス・キリストをご自分の救い主として信じてください。心からお勧めいたします。


使用CDジャケット
ZION PRAISE:真実な主

今日のみことば
こあなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
(ヨハネ14:1)