#1285 ピンピンころりでなく信じて魂の故郷へ

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

今日はですね、聖書が語っている、個人に対するメッセージをお話ししたいと思います。ヨハネの福音書の14章です。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたし(すなわちイエス・キリスト)を信じなさい。

心を騒がせるって、どんな状態かといいますと、不安とか、心配とか、恐怖とか、パニックとか、思い煩いとか、なんかそんな状態。私たちの周りには、心を騒がせるものがいっぱいあるんですよね。この「心を騒がせてはならない」と書いてあるのですが、私たちいったいどういうときに心騒ぐのかということで。
皆さんですね、いま日本全国で一番健康長生きの県ってどこかご存じですか?大阪でないことだけは確かですよ。夏はねぇ、ここは人間の住むとこじゃない。死ぬか思う、この暑さはね。
長野県なんです。で、この長野県のお医者さんが提唱した一つの学問に、PPK学っていうのがあって、これ前にも言いましたよね。これねピンピンコロリの略なんです。大往生のことですよ。このピンピンコロリってどういう意味かっていったらね、死ぬ直前までピンピン元気で、病気に苦しむことなく元気で長生きで、一切寝込むことなく、亡くなる当日にコロリっと逝く。これをピンピンコロリ、PPKって言うんですよ。その反対語がNNKと言いまして、これねネンネンコロリの略なんです。ネンネンって何かといったら寝たきりのことなんですよ。10年も15年もずーっと寝たきりで、チューブ差し込まれてようやくコロリと死ぬことができるっていう、あぁこれ嫌だって。これだけはなりたくないピンピンコロリがいい、ピンピンコロリがいい。

ピンピンコロリはわずか3%

長野県の中でもね、一番長生きの都市がね、佐久市なんです。私ね、今年の8月ですね、佐久におりました。1カ月間。
佐久市に実はですね、ピンコロ地蔵っていうとこがありましてですね、そこにお参りに行ったら、ピンピン生きてコロリと死ねるっていうことでね、みんなそこに行ってお参りするっていう話を聞いたんですが、実はこのピンピンコロリの考え方に対して「ちょっと待ったー」っていうふうに異議を唱えているお医者さんがいるんです。鈴木隆雄さんという方なんですけどね、この方は桜美林大学の老齢科学研究所の所長なんです。つまり老人の生命学といいますか、老人の健康医学ということについてビッグデータを集めながら、いろいろ勉強なさって研究発表されてるという、そういうドクターなんです。この方によると、実際ピンピンコロリで亡くなる人っていうのは全体の3パーセントだそうです。なので「私はピンピンコロリだ」なんていうふうに、それを期待して生きていくっていうのはね、宝くじに当たるかどうかみたいな、そういう確率に希望をおいていくっていうことであって、そんなのやめときなさいっていうふうにおっしゃってるんですね。
「そうではなく、人は老いるものである。弱くなっていくものである。目も耳も遠くなっていくものである。しかし、そのような弱さが倍加されていくことの中で、できるだけ自立できるように努力し、自分が納得できる介護を受け入れ、たとい障害が体の中にあったとしても、いつもご機嫌で生きていくことができるように自分をもっていくっていうことが大事なことなんだ」というふうにおっしゃってるんですが、皆さんどう思いますか。

赤ちゃんが寝たきりで幸せな理由

私、それ聞いた時、ちょっと引っかかるんですよ。歳とっていってもね、いつもご機嫌であるように、できるだけ自立をして、人の世話にはならず、そしてこの、たとい体にいろんな悪いところがあったとしても、うじうじしないように自分をもっていくことが良いって、そら良いですよ、それは。問題はね、どうやったらそうできるかということじゃないかと思うんです。
昔読んだバレーボールの入門書にこう書いてました。レシーブするときには、ボールが体の中央にきてレシーブするのが良いって書いてあるんですけどね、どうやったら体の中央にボールがくるのかということが書いてないんですよ。参考になんない。日本にいながら外国語を習得するためには、反復練習である。分かってるわそんなことは、と。どうやったら、反復練習途中で投げ出さないで全うできるかということが書いてないんですよね。
何があったとしても、心騒がさないように生きるのが良い、って分かってるってそれは。でもどうやったらいいんですか。そのどうやったら、の部分がないんですよね。
でも私はこの寝たきり嫌だな、ネンネンコロリ嫌だな、って思ったときに、一つ思うことがあるんですよね。それはね、私たちは誰しも一度、寝たきり生活を経験しているってことです。赤ちゃんのときですよ。赤ちゃんのときにね、首も座ってない、寝返りもうてない、下の世話全部人任せ「ばぶー、ばぶー、ばぶー」私ね、去年12月、孫生まれたんですよ、孫が。実感がありません。でもね、その子見てたらね、本当にね、幸せそうや。何の思い煩いもない。何月までに原稿書かなあかんとか、そんなん一切ない。「ええなぁ」と皆が羨ましがるんですよね。無力なのに、なぜ羨ましいのか。寝たきり状態なのになぜ羨ましがられるのか。それはこの子が平安であるから。そしてこの子が平安である理由は、絶対的に信頼できる人を持っているんです。親です。赤ちゃんのときには親がいるから、少々自分が無力で何もできなくても、思い煩うことがない。

死の次に待ち受けるもの

でも親になった私たちは、私たちにも魂の親が必要ではありませんか。一枚の紙には表と裏があるように、実はね、表裏一体なんです。
私たちのいのちの裏側には死がへばりついていて、誕生した瞬間から死に始めたのです。今生まれたばかりの赤ちゃんは、余命百年ですよ。生きてる、というよりも死という不可逆的なものに向かって、刻一刻と進んで行っている。そしてその死の次に待ち受けているものが、永遠に神のもとから失われる世界であるのか、あるいは自分の魂の故郷である創造主のもとに帰るのかによって、死の持つ意味合いがまるで違うのです。
キリストはおっしゃいました。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」この「また」というのは、神としてのわたしを信じなさい。神が遣わされた神のひとり子、救い主を信じなさいということです。そして6節、その信じる内容が書いてあります。イエスは彼に言われた。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
ぜひ、このキリストを信じてください。心からお勧めいたします。

 

使用CDジャケット
ノア:信じます

今日のみことば
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
(ヨハネ14:1,6)