ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
先日、私はイスラエルに行きました。アリエルという町の小さなホテルに泊まりました。
すると、そこにフィンランドからの旅行者が泊まっていたのです。
夜の食事の時、私は片言英語で立ち話をしました。
「私はムーミンが好きなんですよ。」と言うと、彼女は
「私もそうよ。でも、ムーミンよりスナフキンがもっといいわね。」と言うんです。
「どんなところが?」と聞くとスナフキンのセリフを一つ教えてくれたんです。
「長い旅に必要なのは大きなカバンではなく、口ずさめる一つの歌だ。」洒落てますね。
人生という長旅では、大きな家、大きな車、大きな会社を持つより、口ずさむたびに気持ちが晴れ晴れとする歌を持つことの方がはるかに大切なんだって言うんです。
口ずさむたびに気力が湧く歌
私にとって口ずさむたびに気力が湧いてくる歌とはイエス・キリストです。
今日、キリストの中にすべての神様の備えがあることを聖書の中から考えてみましょう。
ある時、キリストは4日前に弟を死なせてしまった二人の姉妹の所に行くのです。
この二人の姉は弟の死を受け入れられずにいました。というのは、キリストがもう4日早く来てくれていたら弟の病気はキリストに癒していただけたのにという悔しさがあったからです。
二人の姉は泣きながら今は亡き弟の墓の前までイエスを案内します。
聖書はこう語っています。
彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。イエスは涙を流された。
悲しむ人とともに悲しむ
第1に、キリストは泣く人と共に泣く方です。あなたの心に寄り添って、あなたが感じるようにあなたの悲しみを感じる方です。
喜ぶ人と共に喜ぶのはある意味簡単なことですね。
あなたの愛する人が試験に合格したり、あなたの大切な人が結婚式を迎えたり、出産したり、仕事で良い成績をあげたりした時、「おめでとう!」というのは言いやすいことです。その場にいるということは嬉しいことですね。
しかし、あなたの愛する人が不幸のどん底に落ちた時、恐ろしい宣告を受けた時、何もかも失って絶望している時、どんな言葉をかけてあげることができるでしょう。
相手の事が親身になって思える人であればあるほど、私たちは言葉を失い、途方にくれ、自分の無力さに打たれてしまうのではありませんか。
実は、悲しみのどん底にいる人は慰められたいとは思っていない事が多いです。
励まされたいとは思っていないことでしょう。そうではなく、一緒に泣いてくれることを望んでいるのです。
しかし、私たちは一緒の場所、一緒の時間にいても、一緒の心にまではなれないです。
何故なら、人は一人一人感受性が違います。
ましてや、当事者とそうでない者との隔たりというのは本当に大きなものがあると思うのです。
人以上に悲しみを感じられる方
しかし、ただキリストだけはあなたが感じるように、あなたの悲しみを感じとる方なのです。
もし、あなたが過去の人生において何か辛すぎるところを通ったことがある人で、それを思い出すたびに苦い思いになってしまうなら、どうぞ覚えてください。
あの辛い現場にいたのはあなた一人ではなかった。キリストがあなたと共にあなたが感じるように感じて傍におられたのです。
いや、キリストは人が感じるよりももっと深く悲しみを感じることができる方なのです。
実は、この時、イエスが涙を流されたのは弟を失った姉達の気持ちが分かったからだけではありません。
死というものに対する怒りを伴う悲しみの中にあったのです。
死というものが人間に与えるダメージの大きさ、そのむごい結末を思った時、腹の底から怒りを感じる方だったのです。
実に、あなたのためにあなた以上に苦しんで、あなたの問題に立ち向かっていかれる方、それがイエス・キリストなのです。
悲しみの解決者
第2に、キリストはただ悲しみの共有者で終わるのではなく、解決者である方なのです。
聖書にこう書いてあります。
イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出てきなさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出てきた。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
なんと、イエス・キリストは4日前に死んで腐り果てていたはずのラザロをよみがえらせたのです。
仮死状態の人を蘇生させたのではありません。完全に死んで4日もたって遺体が朽ちている人を完全な健康体にして生き返らせたのです。
実は、このキリストの復活の奇跡は、当時イエスの反対者であったユダヤ人達の記録にも記されています。
イエスは悪魔の力で人を生き返らせたり奇蹟を行ったと書いてあるのです。
勿論、悪魔の力ではありません。神の力で奇蹟を行ったのです。
しかし注目したいのは、イエスの反対者すらイエスが奇跡を起こしたことを認めているということです。
反対者はイエスに有利なことは言いません。不利になるようなことばかりを書くはずです。
その人達ですらイエスが奇蹟を行ったということは認めているのです。
つまり、本当に奇蹟があったということなのです。
キリストは死者をよみがえらせることが出来る方です。いのちの主です。
しかし、この奇蹟のためにイエスは当局の怒りと恐れをかい、十字架処刑への道のりが本格的にスタートすることになったのです。
奇蹟は私たちへのメッセージ
第3に、この奇蹟が今日生きている私たちに対して語っている意味なんです。
死んで4日もたって臭くなっていた人を新しく造りかえることができたキリストは、罪によって腐り果てた人生を行く人をも全く新しく造りかえることができるのです。
ドストエフスキーの代表作に『罪と罰』があります。
主人公のラスコーリニコフは人間には2種類あると言います。
人を殺して罪に定められる平凡な人間と、ナポレオンのように多くの人の命を奪っても英雄とされる非凡な人です。
自分はその非凡な人なのだと自らに言い聞かせ、ある強欲な金貸しの老婆を殺害し金品を奪い取るという計画を立てて実行します。
ところが犯行当日、来るはずのなかった老婆の妹がやって来て、その犯行現場を目撃されてしまうのです。止むを得ず、ラスコーリニコフは第二の殺人に及ぶのです。
この小説のクライマックスは、家族のために娼婦に身を落としたソーニャという女性が、殺人犯であるラスコーリニコフに聖書を読んで聞かせるシーンです。
長い長い聖書の箇所を朗読するのです。そして、彼女が読んだ箇所こそが今日皆さまに紹介している箇所なのです。ラザロをよみがえらせるキリストの奇蹟を語るのです。
人を殺してしまった殺人者と自分で自分の人生を殺してしまった娼婦は、罪人のために涙を流し、血を流し、いのちまで捨てて、よみがえってくださったキリストの中に光を見出していくのです。
どうぞ、あなたも罪人に寄り添い、死者をよみがえらせることができる唯一の救い主、あなたのために死んでよみがえられたイエス・キリストを救い主として信じ受け入れてください。心からお勧めします。
イエスは涙を流された。
そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」
すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。
(ヨハネ11:34-35,43-45)