おはようございます。高原剛一郎です。
私は先日、ピーター・フランクルさんのインタビュー記事を読みました。
18歳で国際数学オリンピックで優勝、世界12か国語を完璧にマスターするだけでなく、大道芸人としても活躍するマルチ人間です。
そして現在彼は、国際数学オリンピック日本チームのコーチでもあるのですね。
ところで、彼はどうして日本に移住し、数学のコーチをかってでるようになったのでしょう。
ユダヤ人として差別されてきた
実は彼は、米ソ冷戦のまっただ中1953年に、ソ連の影響の強いハンガリーという国で生まれたユダヤ人でした。
小学1年が終わった7歳の夏のことです。仲良しだった一つ年上の少女の家でゲームをして遊んでいたそうです。
ところがささいなことで喧嘩になり、彼女は非常に怒って、大声でこう言ったのです。「黙れ、臭いユダヤ野郎」
彼はそれまでユダヤという言葉を聞いたことがありませんでした。というのは両親がそのことを彼に隠してきたからです。
彼の両親はユダヤ人であるがために、迫害を受け、全財産を取り上げられ、収容所に入れられ、親類を殺されてきたのです。
それで戦争が終わった時、両親はユダヤ教を完全に捨て去り、ヘブライ語は一切語らず、シナゴーグにもいかず、ユダヤ性を一切否定してごく普通のハンガリー人として息子を育てたのです。
それだけに、少女の言葉は青天の霹靂でした。
ピーター少年は家でしくしく泣いていました。するとお母さんが来て、説明してくれたのです。
国家は敵だったということ、人を安易に信用してはいけないということ、ユダヤ人が話題に上がった時には身を小さくして反論してはいけないこと。
それは幼心に恐怖と不安がいっぱいに広がっていく事でした。
ピーター少年の場合、自分ですら自分がユダヤ人であることを知らなかったのに、8歳の少女までが彼がユダヤ人であるということを知っていたのです。
もちろんクラスメイトや尊敬できる教師も学校にはいました。
でも、国が反ユダヤ主義に傾けば、彼らも豹変するだろうと思うと、居てもたってもおれない心境になったというのです。
日本で初めて味わった平安
やがて彼はフランスに留学して、自由のすばらしさを味わい、亡命してしまいます。
しかし亡命したフランスがあるヨーロッパでは、今でもユダヤ人に対する差別ニュースがしばしば流れて来るのです。
ところが、東京大学の招きで日本にやってきたとき、世界のどの国でも味わったことのない平安を感じたというのです。
彼がユダヤ人であるということで、身の危険を感じるということが全くないというのです。
彼は日本で初めて、身の危険を感じることがない、心から安心することができたというのです。
この心の平安ほど貴重なものはないのだと、彼は断言するのです。
そしてこの平安をプレゼントしてくれた日本へ何か貢献したいと思って、国際数学オリンピックのコーチをかってでたというのです。
人間は不安に脅かされている
ところで、この日本に住む大部分の人は、日本で生まれ育った方々だと思います。
でも、日本にいるからといって心に平安をもって生きているとは言えないと思うのです。
何しろ、いま日本で一番大量に売れている薬は睡眠薬・精神安定剤のグループだというのです。
人間は他の人からの差別がなくなっても、別の種類の不安に脅かされて生きているものではないかと思うのです。
そこで今日は、キリストの約束を紹介したいのです。
十字架にかかる直前、イエスキリストはこう言われました。
わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。
ここから三つのポイントでお話しいたしましょう。
裁きから解放される平安
第一に、キリストが与える平安とは、死後の裁きから解放されたことによる平安です。
アフリカの部族語の中に、バムバラ語という言葉があるそうです。そこでは「贖い(あがない)」という言葉を、「首を外す」というそうです。
昔この部族は奴隷にされていました。奴隷船が来ると、船底の板に首の鎖でつながれてしまうそうです。
窓もなく、不衛生な密閉空間に、鎖で閉じ込められた彼らの未来は全くありませんでした。
しかし誰かが、彼らのために金を払って、奴隷状態から解放すると、最初にされる事は首の鎖を外されるということであったのです。
彼らにとって「首を外す」とは、自由になる事、解放される事、滅びから免れる事だったのです。
キリストはご自分のいのちという代価で、あなたを死後の裁きから自由にして下さいました。
これはこの世が与えることができない平安なのです。
罪には解決がある
第二に、罪の咎めからの解放です。
20年ほど昔、小学生二人が残酷な方法で殺害されるという事件がありました。
世に言う、酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)少年Aの事件です。恐るべき、憎むべき事件です。
まだ中学生だった少年が取調室から出た時、年配の刑事が彼に向ってこう言ったというのです。
「すまなんだのう。もっと早く捕まえてやれなくて。」
犯人の立場で言うなら、捕まらないことが一番良い事に思えるものです。
しかし、どんなに逃げてもいつ見つかるかという不安が常について回るのです。
捕まらない限り、罪の暴走を止めることはできません。
治療も訓練も受けることができないからです。
罪ある人間にとって、最終審判の前に罪の発覚がある事、自分の罪と向き合う機会があるということは、実は恵みなのです。
多くの場合、人は神から逃げようとします。それは捕まったが最後、裁きしかないと考えているからです。
しかし、神はあなたを赦すために、キリストを一度、あの十字架で死なせてくださった方なのです。
罪には解決があるので、私たちに呼びかけておられる方なのです。
キリストは待っておられる
第三に、神との関係を回復して頂くという平安です。
2000年7月4日、20世紀最後のアメリカの独立記念日その当日、ニューヨークの港では世界中の船が所狭しと停泊していたのです。
そこに、クイーン・エリザベス号が入って来た時のことです。
なんと、停留していた海上自衛隊の練習艦・かしまに、接触事故を起こしてしまったのです。
双方に大きな被害はありませんでしたが、エリザベス号の船長代理として、機関長と一等海佐が謝罪のために、かしまを訪問したのでした。
その際練習艦司令官だった吉川榮治海将補は詫びる相手に対してこう言ったのです。
「幸い損傷も軽かったし、気にしておりません。それより女王陛下のキスを受けて光栄に思っております。」
このユーモアと余裕に満ちた挨拶は、機関長を大いに感激させ、そしてこのやり取りはタイムズやイブニングスタンダードという大きな新聞で大々的に報道されたのです。
確かに事故そのものはない方が良いに決まっています。しかし機関長には忌まわしい事故の記憶が残ったのではなく、嬉しい友情の記憶として残ったのです。
それは喜ばしい結論があるからです。
キリストは私たちの罪を赦すだけではなく、癒す方です。
罪そのものは忌まわしいのですが、罪を悲しんで、キリストの前に進み出る者に対しキリストは温かく、優しく迎え入れ、神との喜ばしい交わりの中に私たちを迎え入れて下さるのです。
この平安を私たちに用意するためにキリストは十字架で死んで、墓に葬られ、そして三日目に蘇ってくださいました。
どうぞあなたも、あなたに魂の平安を与えようと待ち構えておられるキリストを信じてください。心から、おすすめいたします。
(ヨハネ14:27)