おはようございます。尼川匡志です。
今年の二月、私たち夫婦は奈良県から宮崎県へ引っ越しました。
還暦を迎えた自分がまさか九州へ行くことになるとは夢にも考えていませんでした。
私たちの人生は偶然の連続だと考えている人がおられます。出来事一つ一つに別に意味はなく、たまたまそうなったという捉え方です。
それとはちがって、人生に起こることには意味があると考えている人もいます。私もその一人です。
不思議な人生
私は大学受験を二度失敗し、専門学校へ行きましたが、しかしそこを一年で中退するんですね。
仕事もなかなかこれだ、というものが見つからず、転々としました。妻は一歳の時に生みの母を亡くしました。
高校時代から祖父母に育てられました。キラキラ輝く青春時代ではありませんでした。
でもそれらがなければ、私と妻は出会うことなく、愛する二人の子どもたちに恵まれることもありませんでした。
下の娘は一昨年、素敵なクリスチャンの男性と結婚しました。そして子どもが与えられました。
もし私か妻の人生の何かが、ほんの少し違っていれば、この孫は存在しなかったでしょう。
人生は実に不思議です。自分で選択しているようで、決してそうではない。生きているようで、生かされている。
人の人生を意味付けする存在
私は宮崎で幸いな人生を与えられると信じています。
今までの人生が偶然であるなら、未来も偶然の連続です。そしてそれは、運に頼る以外方法がないんですね。
賽の目が凶と出るか、吉と出るか、です。
でも、意味があるなら、現在もそして未来も、未来で待ってる様々な出来事も、意味があることになります。
そして人生に意味があるなら、意味付けする存在が必要なんですね。
音符に意味付けをするを存在を作曲家といいます。
文字の羅列に意味付けをする存在を作家といいます。
人の人生に意味付けできる存在を、聖書は創造主、神、というんです。
神という存在が私たちの人生を幸いなものにしようと、導き、働きかけてくださっているんですね。
多くの人はあまりそれに気づいておられないようです。
38年間病の中にいた男性
さて今から二千年前のエルサレムに、38年間病に伏している一人の男性がいました。
この人は、べテスダと呼ばれる池のところで生活をしていました。
当時この池には、一つの言い伝えがあったんです。それは、主の使いが時々降りてきて、池の水を動かすというんですね。
そして水が動いた後一番初めに池に入った人は、どんな病気でも癒されるというんです。
まゆつば物です。でも、病人、盲人、足の萎えた者、やせ衰えた者たちが池の周りに大勢いました。水が動くのを待っていたんです。迷信にでもすがりつきたかったんですね。
この男性はどのような病気であったのか、わかりません。でも一口に38年の間と言いますが、たいへんなことだと思うんですね。
人生の大部分を病の中に閉じ込められているんです。働くことも、人生を楽しむことも、恐らくできなかったことでしょう。
孤独と不安のなかにつながれているんです。
運が悪くて病気になったわけではない
彼がいつからこのべテスダの池で暮らすようになったかわかりませんが、いっこうに病から解放されなかったんです。
私の周りにも10年以上、重い病のなかに閉じ込められている人が何人かおられます。
彼らの苦労は正直私にはわかりません。希望を失い、不安になることもあるでしょう。
何のために生まれてきたのか、なぜ私は病から解放されないのか、そう考えて当然だと思います。
私はその人たちに慰める言葉も励ます言葉も持っていません。ですが、一つ言えることがあります。
それはその病にも、何か意味がある、ということです。たまたま運が悪くてその病気にかかったのではない。
では、その意味を教えてくれ、と言われても、私にはお答えすることができません。でも、何かがあるんです。
私たちは人生に起こることの意味がすべてわかるわけではないんです。私は自分の人生を振り返る時、最悪の出来事に見えたことが、後々、大きな意味を持つことを経験してきました。
平安を与える計画が神にはある
聖書にこんなことばがあります。
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。 主の御告げ それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
ここで「わたし」と言っておられる方は、神です。神にはあなたに平安を与える計画があるんだ、というんですね。
そしてその平安な場所にあなたを今、導こうとされているんです。
このことばの中に「あなたがたの将来と希望を与えるため」とありましたが、将来とは「これから末に」という意味のことばです。
つまりあなたの人生の今から後に、平安と希望を与える計画を神は持っておられると言っておられるんです。
どんなに絶望的な状況に見えても、高齢で人生がそんなに残されていないと思えていても、今から後に、平安を与える計画が神にはあるんですね。
神のことばに信頼する新しい未来
さて38年間伏していたこの人のところに、イエス・キリストが来ました。そして、こう訊かれたんです。
「よくなりたいか。」
しかし彼はよくなりたいです、とは言えなかったんです。
なぜでしょうか。彼は自分の人生にもはや、希望を持てなくなっていた。人生を諦めてしまっていたんです。そしてただこう言いました。
「誰も私を動いた水に入れてくれないんです。」
周りの人々への恨みしか口にすることができませんでした。辛い人生ですね。しかしその彼にイエスは言われた。
「床をあげて歩きなさい。」
彼はイエスの力に満ちたそのことばを信じようと思いました。そして希望を持ち、立ち上がったんです。新しい人生の一歩を踏み出したんですね。
私たちの人生には意味がよくわからない辛いこと、絶望に思えることがあります。でも、それらに意味がないのではありません。
そのことを用いながら、神は私たちに、今から後の人生に平安を与える。
その神のことばを、あなたも信頼してみてはいかがでしょうか。新しい未来が見えてくるはずです。心からお勧めいたします。
(エレミヤ29:11)