
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私は先日、中東問題について講演しました。質疑応答の時間になりましたが皆さん緊張してなかなか手が上がりません。どんな質問でも結構ですと促すと一人の男性が口火を切ってくださいました。「講師、足のサイズ何ぼですか?」と聞いたんですね。一瞬頭の中が真っ白になりました。しかし会場はどっと笑いが沸き起こったんです。彼が靴メーカーのオーナーだったからです。緊張が解けた後の質疑応答の時間はとても充実したものになりました。愉快な質問は愉快な雰囲気を生み出しますね。肯定的な問いは肯定的な答えを引き出すんですね。
さて、聖書の中にキリストと弟子たちの質疑応答がたくさん出てくるんです。あるところに生まれつきの盲人がいました。彼について弟子たちはキリストに質問するんです。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」
生まれつきの重いハンディキャップを負う人を見た弟子たちはその原因はどこにあるのかと犯人捜しをしたのです。誰の責任ですか。誰が悪かったからこうなったんですか。誰の罪が引き起こしたものですかと。「誰が」という点に焦点をあてた質問をしているんですね。しかしイエス・キリストは誰がという問いにはお答えにならないで、その代わりに人生の目的についてお語りになったのです。どうして弟子の誰がという問いにはお答えにならなかったのでしょう。質問の持っている方向性が間違っていたからです。実は人生の中で遭遇する様々な出来事に対して迷路に入り込んでしまう問い方が三つあるんですね。
「なぜ?」という質問
第一は、「なぜ?」という質問です。なぜ同僚はもっと一生懸命に仕事しないんだろう。なぜ私ばかりがこんな目に遭うんだろう。私たちがうまくいかないとき、なぜこんなことに、と考えるとどんな気分になるでしょう。落ち込むんですね。なぜですか。被害者意識のとりこになるからです。なぜ私ばかりがこんな目に遭ったのかを考えると、自分が周囲の人たちの犠牲者に見えてくるのです。実際犠牲者の面はあると思うんですね。しかし、打つ手のない犠牲者のように思えてくるのです。なぜなら、周りの人の考えや行動が私の人生を決定するとするなら、私は周りの人々の奴隷にすぎないからです。奴隷には自由がありません。人生になぜと問い詰める姿勢は、自らを暗闇の中につなぐことなのです。それは不毛の問いかけなんですね。
「いつになったら?」という質問
第二に、してはいけない問い方は「いつになったら?」ということです。いつになったらメールの返事が返って来るんだろう。いつになったら頼んでた荷物が届くんだろう。いつになったらこの状況は変わって出口が見えるんだろう。これもまた人を不自由にする質問です。というのは、今自分ができることをしないで今できないことのアリバイ作りを用意する質問であるからです。返事がないので今私は何もできない、打つ手がないというのはまあある面事実なんですけど、返事がなくてもできることはほかにあるはずなんです。しかしいつになったらという相手任せの発想で見ると、私がすべきことがずるずるずるずると先送りされてしまうのです。何かを先延ばしにするとストレスがたまりますね。宿題が増えるからです。手を付けるべきことをしないと人生が億劫になってきます。自分の人生の決定権を誰かに握られているような気分になってくるんですね。
「誰のせいで?」という質問
第三に、してはならない問いかけ方は「誰のせいで?」という質問です。誰が間違えたからこうなったのか。誰が締め切りに遅れたんだ。誰がへまをしたんだ。誰がしくじってこんなことになったのか。という問い方です。
あの3月11日の東北大震災で福島第一原発が破壊されてしまいました。事故調査委員会が発足しましたが、委員長は失敗学で有名な畑村洋太郎という方です。彼は失敗の研究をする専門家なんですが、この委員会の初めにはっきりと宣言なさったのは「調査は犯人探しではありません。誰かの責任追及のための委員会ではありません」とおっしゃったことです。もしそれをやれば真相は分からなくなるからです。誰もが自分を守るために本当のことを言わなくなってしまうんですね。誰のせいでこうなったか。誰が罪を犯したから盲目になったのか。この人ですか。その両親ですか。という問いは単なる犯人捜しであって、たといその原因が誰かということが分かったとしても何の解決ももたらさない質問なんです。
なぜこんな目に遭わなければならないのか。いつになったらよくなるのか。誰のせいでこうなったのか。というこの三つの質問は、人を過去と環境の奴隷にする問い方なのです。それでキリストはこれらの質問にはお答えになりません。その代わりにこうおっしゃったのです。神のわざが現れるためですと。人は神の栄光のために造られました。人生は神の栄光を現すために与えられました。人間の上に降りかかる問題は、神の素晴らしさを示すために許されました。と言うのです。あなたはこの目的を知らされてどう答えますか?とおっしゃったのです。実に人生は私がなぜと問うものではなく、私がどうする?と問われているものなのです。
キリストに解決がある
では具体的にどうしたらいいんでしょう。キリストはこの盲人の目にこの後、唾で泥を作って塗り付けそしてこうおっしゃったのです。「『行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。」何と彼はキリストによる奇跡によって目が見えるようになったんです。しかし、そのキリストの奇跡は何によってもたらされたのでしょう。自動的に彼が何もしないでもたらされたのではないのです。彼がキリストのことばに答えることによってもたらされたのです。
この歴史的事実を適用して考えるならこうなると思うのです。なぜこんな目に遭ったんだろうと問う代わりに、今ここで神の素晴らしさを現していただくために私ができることは何かを考えて、それを実行することなのです。いつになったら良くなるかを考えて引きこもるのではなく、キリストならどうするだろう、いやキリストが助けてくださると言うなら私ができる解決策はどんなものが考えられるだろうと、自分に問うことです。誰のせいだろうではなく、私はどうすれば神の栄光を現していただけるだろうと、自らに問いかけてみることなのです。彼はシロアムの池で洗って見えるようになりました。シロアムとは遣わされた者という意味です。遣わされた者とは誰のことでしょう。キリストのことなんです。キリストのところへ行ってキリストの提供してくださる救いで自分を洗うことが、本当の解決の始まりなのです。
どうぞあなたも神から遣わされた救い主イエス・キリストのもとに行ってください。心からお勧めしたいと思います。
(ヨハネ9:3)