#1249 死に完全勝利するキリストの救い

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

 さて、人間が得る情報は五感によって得られます。先日ある雑誌に、その五感によって得られる情報の割合が書かれていました。それによると、視覚が87%、聴覚が7%、触覚が3%、嗅覚が2%、味覚が1%だそうです。人間が外から得る情報のほとんどは視覚だっていうんですね。
 ところで、目や口や鼻や耳という感覚センサーは全部前に向かってついています。つまり、人間は前方に向かって生きるように設計されているんです。しかし、人生の前方に確実にやってくるものでありながら、日ごろ人間が五感のすべてを封じて、見ないように考えないようにしているものがあります。それは、死です。ところが、この死と真正面から向き合って、しかも絶望ではなく希望を語る人物のことばが、聖書の中に登場するのです。それは信仰のゆえに、死刑囚となったパウロのことばです。このように書かれています。

私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。

 ここで、パウロという人物は死を目の前にしながら、死に対して完全な克服を遂げているのです。なぜ、彼は死を恐れなかったのでしょう。

死の正体と限界を見極めていた

 第一に、復活のキリストによって、死の正体と限界を見極めていたからです。
 どんな野生動物ともすぐに仲良しになれることで有名な方に、畑正憲さんがいます。そんな彼でも、一つだけ何を考えているのか気持ちが読めない生き物がいるそうです。それは、ヘビです。ある時彼は、アナコンダという大蛇を両手に持ち上げて、テレビで紹介したんです。そのうち彼は、アナコンダを身体に巻きつけたんですね。すると突然この大蛇が全力で畑さんを絞め上げだしたのです。みるみるうちに畑さんの顔面は真っ赤に変色していきます。このままでは窒息死するのは時間の問題と思われたその時、突如としてアナコンダが脱力して地面に落ちたかと思うと、そそくさと逃げていくではありませんか。
 実は、アナコンダには一つ急所があるんです。それは下あごです。下あごを強く握られると、アナコンダは力が抜けてしまうんだそうです。ムツゴロウさんはアナコンダに巻きつかれながら、しっかりと下あごを掴んでいたんですね。4メートルも5メートルもあるヘビに巻きつかれながら、なぜ畑さんはパニックを起こすことなく冷静でいることができたんでしょう。脱出の道を心得ていたからです。ここを押さえれば打ち破れるという急所を掴んでいたからです。ヘビの力を無力にする術を知っていたからです。
 それと同じように、実は人間に巻きついている死にも弱点があります。死を無力にした方がおられるのです。それはイエス・キリストです。キリストは十字架にかかり、死に、墓に葬られ、三日目に死を突き破ってよみがえりました。このキリストを自分の救い主として信じている者は、キリストが死を打ち破って復活したとおり、たとい死んでもよみがえる日がやってくるというのです。そして死んだ後、キリストを信じている人の行く先は永遠の天国なのです。それはこの地上とは比べものにならない完全な世界なんです。つまり、キリストによって罪赦された人は、死によって致命的なダメージを受けません。つまり、一番肝心なものは、たとい死んでも何一つ失うことがないんです。

死の意味を知っていた

 第二に、死の意味をパウロは知っていたのです。彼は言いました。「私が世を去る時はすでに来ました。」この「世を去る」の去るということばは、ギリシャ語では「アナルヨウ」と言います。「アナルヨウ」には二つの意味があります。一つ目は、明らかになるという意味です。この「アナルヨウ」から派生したことばが「アナリシス」分析ということばなんですね。よく「株式アナリスト」という方がテレビに出てきますが、これは株の上げ下げを明らかに分析する人のことです。それと同じように、実はクリスチャンの死は、神の視点で人生を明らかに見る時でもあるんです。私たちの見かたはどうしても短期的になりがちです。永遠の視点で一つ一つの出来事を見ることができないのです。しかし、この世を去ると、人は神の視点で今までの人生、またこの世を眺め見ることになるのです。その時、長年腑に落ちずにいたあの事、この事、人生の謎や不公平と思われたこと、さまざまな試練や苦しみの意味が、神によって解き明かされるのです。

死とは解放を意味する

 第三に、クリスチャンにとって死とは、解放なんです。先ほどの「世を去る」ということば「アナルヨウ」には、もう一つ意味があります。「しっかり結んでいた結び目をほどく」という意味です。一日の重労働で疲れ切った家畜をつないでいた紐を解いてやるときに使うことばです。あるいは、旅人が次の目的地に向かっていくとき、夜露をしのいだテントをたたむときに使うことばです。あるいは、港に係留中の船をつなぐ舫い綱を解くときに使うことばです。人はこの世で為すべきことを終えるまでは、この地上につながれています。しかし、為すべきことをすべてやり終えたなら、母港に向かって進水するのです。それは自由になることであり、解放されることであり、本当のたましいの目的地であるふるさとに向かってスタートすることです。クリスチャンにとって死は、一巻の終わりではなく、まさに一巻の始まりなのです。本当の人生の本番は、死後の世界にこそ始まるのであるからです。この地上の人生は、その本番に備える真剣勝負のリハーサルです。リハーサルでは、たとい失敗があったとしても致命的にはなりません。本当の本番は死後に始まります。そして本当に良いものは、これから始まるんです。もしそれが死であるとするなら、何を恐れる必要があるでしょう。
 ところで、サッカーの試合では前半45分、後半45分、合計90分の試合で決まるのですが、途中のロスタイムを加算するので、試合開始から45分経っても試合は終わりません。負けてるチームは、試合終了のホイッスルが鳴るとみなコートにつっぷして倒れこんでしまいます。しかし、勝ってるチームにとって、試合終了のホイッスルは残念のお知らせではありませんね。ついに勝利を手にしたことの合図なのです。
 もし、あなたが罪と死からの救い主イエス・キリストを信じておられるなら、人生のどのタイミングで死が訪れたとしても、それは勝利のホイッスルなのです。どうぞ、あなたもいつかはやってくる死に完全勝利する側に立ってください。そのためには、イエス・キリストをご自分の救い主として信じることなのです。どうぞ、この今日という最大のチャンスの時に、キリストを信じるというゴールをご自分の意志で決めてください。心からお勧めしたいと思います。


使用CDジャケット
SHIAUKA:あなたの道を主に委ねよ

今日のみことば
私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。
(2テモテ4:6-8)