#1233 生きる勇気が湧く―ゴスペル④

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

みなさん、こんにちは。
リハーサルから少し聴いていましたけど、やっぱりゴスペルっていうか、生で聴くこのライブというのが何にも代え難いと思います。まぁそのことを考えながら私はある短編小説を思い出したのです。
戦後まもない時に活躍したクリスチャン作家に椎名麟三という方がいます。クリスチャンになって間もないときに短編小説書くんです。その小説のタイトルは『公園のボート』というタイトルです。くら子と、盛夫という倦怠期の恋人がいるんです。もうね、お互い新鮮味ないんですよ。惰性でデートしてる。「公園でも行くか」「ボートでも乗るか」言うてね。2人でボート漕いで全然話弾まない。
ところが、何かの拍子でそのボートがひっくり返るんですね。2人とも池に投げ出されるのです。そしてくら子は泳げない人だったのです。「盛夫さん助けて」って言って。「私泳げないの。盛夫さん助けて」ところがもりおは、いっさい手を貸そうとせず、むしろ怒鳴りつけてるんですね。なんて言ってるんでしょう。「立てるってば」「はーい」って立ったらね、おへそくらいの深さの池だったっていう話なんですよ。彼は何を言いたかったんでしょう。

キリストは罪の赦しを与えるために来られた

実はキリストを信じていても自分の罪を見つめていると、こんな酷い私が救われるとは到底思えないなどという思いがよぎる時があります。しかしそれらのすべての罪は、イエス・キリストの十字架によって全部解決済みだというのです。お手元のプログラム用紙の裏表紙をご覧いただけるでしょうか。そこに聖書のことばが印刷されています。まずここをお読みいたしましょう。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

こう書いています。「私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。」
私たちの罪の赦しのために全く罪のないイエス・キリストが、私たちの罪の償いとしていけにえになってくださったという意味です。私たちの罪のための断罪者としての御子、さばき主としての御子、裁判官としての御子であるならば、私たちは逃げ惑うしかないでしょう。しかしキリストが来られた目的は、罪を責め立てるためではなく、その罪の赦しを与えるためであったのです。

十字架はキリストの愛のあらわれ

実はこのことばを書いてるのはヨハネという人物です。彼はイエス・キリストの側近中の側近です。キリストには12人の弟子がおったんですが、その中でもとびっきりイエス・キリストの1番近くにいたそんな弟子です。このキリストがやがて陰謀によって逮捕されることになった時、この12人の弟子たちみんな逃げていきました。ペテロはどこに行ったかよくわかんない。ヤコブもどこに行ったのかよくわかんない。今まで強面と言われていた、右翼団体に入ってるようなユダという人物もいなくなってしまった。ところがこのヨハネという人物だけが、十字架にかけられたイエス・キリストのそばに最後まで付き添ったのです。そしてイエス・キリストが息を引き取る、その瞬間を見届けた弟子です。
彼はその十字架を見ながらどう思ったでしょう。約3年半キリストとともに寝食を一緒にしておりました。このイエス・キリストという方は、罪がどこにもない。罪を犯したことが一回もないだけではなく、良いことしかなさらなかった。難病を一瞬で癒やし、悪霊につかれてる人を一瞬で解放し、罪におののいてる者には罪の赦しを宣言し、死の恐怖で固まってる人には永遠のいのちがある、天国がある、そして死人を生き返らせることまでもなさったんです。
良いことしかなさらなかった。この良いことしかなさらなかった方のその人生の報いは、十字架でした。良いことをして良い評価がきたんじゃないんです。素晴らしいことをしてみんなからチヤホヤされたんではない。良いことしかなさらなかったのに、素っ裸にされて十字架に釘付けられて、みんなからののしられて、あざけりの中でこの方は苦しんでいかれるのです。その姿を見た時におそらくヨハネは「なんて不条理だ。なんて不公平だ。こんな理不尽なことなんて許されてたまるか。なんでこんなひどいことが起こるんだ。イエス・キリストの十字架の死は正義の敗北である」
しかし後に目が開かれたときに分かったんですね。キリストの十字架は敗北の姿ではない。実にこのキリストの十字架の姿にこそ、神の愛が現れている。私たちの罪、全部合計したらどうなるんでしょう。その人類が犯したすべての罪を神は十字架にかかったイエス・キリストのうえに全部乗せてくださったのです。そして人間がさばかれる代わりに、キリストが身代わりのいけにえとなって私たちをかばって死んでくださいました。ここに神の愛があるとヨハネは言ったのです。

あなたの罪はすでに解決済み

ところでヨハネはそのキリストの十字架の3日後によみがえりのキリストと出会うんですね。キリストは死んで終わりではなく、死んで3日目によみがえり、弟子たちの前に現れてくださいました。キリストは今も生きておられる方です。
そして私たちの罪の赦しについてはもう終わってるよ。神が赦すことができない罪はもうどこにもないよ。もし私たちが立ち返る気持ちがあるなら、いつでも神は喜んで私たちを待っていてくださる。全部赦してる。イエス・キリストの前で落ち合おうじゃないか。
このキリストの救いが完全なので、過去にどんな罪があっても赦されます。永遠のいのちが与えられます。たとえ死んでも永遠の天国に行くことができるのです。自分のしでかした様々なことを思い返すと、なんという酷いことをしてきたのだと、私も悲しい思い出がたくさんあるんですが、しかしそれらのすべての罪はイエス・キリストの十字架によって全部解決済みだというのです。「キリストが完成してくださった救いのうえにしっかり立とうよ。立てるってば」これが彼が言いたかったメッセージです。
みなさんいかがでしょうか。あなたが救われるのに必要なこと全部やり遂げて、救いを完成しておられます。ぜひこのイエス・キリストを信じ、永遠のいのちにあずかってください。心からおすすめいたします。

使用CDジャケット
Migiwa:愛の世界

今日のみことば
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
(1ヨハネ4:10)