ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私の友人は小さなお土産を深く感謝できる人です。彼は「〇〇さんからこんなお土産を頂いたんだ」とか、彼の部屋に行きますと嬉しそうに小物を取り出して、そして説明してくれるんです。
どうしてそんなに新鮮に喜べるのか聞いてみると、「何を貰ったかという事より、旅先で自分のことを思い出してくれたことが嬉しいじゃないか」って言うんですね。人は旅行に行ったら美味しいご馳走、珍しい景色、楽しい行事で熱中するでしょう。そして熱中してる時には日常のことなんか忘れているはずです。それなのに「そうだ、あの人にこれを買って行ってあげよう」と思い出してもらえてるという、そのことが嬉しいではないかって言うんですね。なるほどなと納得しました。
ところで、聖書の神はいつもあなたのことを思い出し、熱い思いであなたを見守っておられる方なのです。そしてとうとう、小物やつまらない物ではなく神にとって何にも代え難いご自分のひとり子をあなたに与えてくださったというのです。
今日は12月25日クリスマスですね。このクリスマスメッセージを凝縮した聖書の箇所を、ご一緒に考えてみましょう。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ここから三つのポイントで解説いたします。
神はあなたを愛しておられる
第一に、あなたを造られた神はあなたを愛しておられるということです。何によってそれがわかるでしょう。御子イエス・キリストをこの世に送ることでわかるのです。
ある高校の先生が亡くなられたとき、生徒たちが大きな衝撃を受けました。みんなその先生のことが大好きだったのです。なかでも一人の女生徒は号泣して、まっすぐ立っていられないほどでした。未亡人となった奥様が彼女のところへ行って、「主人はあなたにとってかけがえのない教師だったんですね」と声をかけました。すると彼女は「確かに私にとってかけがえのない先生です。でも、それはあの先生の前に私が立つと、私自身がかけがえのない人間なんだと確信することができたからです。先生と話をしていると私はいつも自分を大切にしようと思いました。そんなふうに私を変えてくださったのは先生だけです」
私にとってはキリストがそんな方です。キリストの前に立つたびに私は自分を大切にせねばならないと思うのです。また自分がかけがえのない存在なのだと確信できるようになりました。というのは、神のひとり子がわざわざ神の在り方を捨てて、人となってこの世に来てくださった。それほどの愛を示されるほどの人物として、私が選ばれたと考える時に何か自分に対する確信が湧いてくるのです。
神は誰を愛して人にまで下ってこられたのでしょう。もちろん世のためと書いています。世とは神から離れて生きている人間のことです。神を見失って人生を彷徨っている人間のために、神の御子は人間イエスとなって来てくださいました。それは神にとってあなたという存在が、かけがえのない存在であることを身をもって示す行為なのです。
キリストはあなたのために命を捨てられた
第二に、キリストはただ人として生まれてくるだけではなく、いのちを捨てるために生まれてくださったということです。
幕末、清水港中心に東海地方を取り仕切った侠客に、清水次郎長という人物がいました。ある時、勝海舟が彼に尋ねたそうです。「次郎長さんよ、あんたには三千人の子分いるけれど、その三千人のうちの何人が、親分のあんたのために命を献げるだろうか」次郎長はこう答えたと言われています。「勝先生、三千人の子分のうち、誰一人としてこの私のために命を献げようなんて思う子分はいないでしょう。でもね、あっしはどの子分一人にでもこの命を捨てる覚悟はありまっせ」勝海舟はそのことを聞いて感服したと言われています。
当時明治政府は、政府内が紛糾していたのです。幕府というでっかい敵を倒した後で、みんな自分のことばっかり考えている。ところが、この次郎長親分はしてもらうことは何も期待せず、自分の子分にできることを考えている。そして腹を括っている。だからこそ三千人が付いていくんだろう。一つの家族のようにまとまっているのだろうと感心したというのです。
侠客の次郎長でも、子分のためなら命を捨てる。そう言われた子分はどんなに感動するんでしょう。しかし神は、神に忠誠を誓う者たちのためではなく、神に敵対する人間のためにひとり子を十字架の上で捨ててくださったというのです。これが神の愛です。この神の前に愛されていない人は一人もいません。私たちが敵であったときですら、神は惜しむことなくひとり子のいのちを犠牲にしてでも私を救い出そうという、恐ろしいまでの愛で愛してくださったのです。
キリストを信じるなら救われる
第三に、このひとり子イエス・キリストを救い主として信じるものは、一人として滅びることなく永遠のいのちが授けられるというのです。
以前、海水浴場でレスキュー隊員をしていた方がこんな事を仰ってました。自分が溺れかかっていると気づいた人はパニックになって、もう何にでも捕まってしがみつくようになるそうです。そういう状態の時に救助隊員が行きますと、救助隊員も水の中に引きずり込まれてしまうようなことがあるというんですね。なので経験豊かな救助員は、30センチほど後ろに留まって立ち泳ぎをし、溺れかかっている人が自力で自分を救おうとするのを諦めるまで待つ必要があるということを知っているということです。そうすれば簡単に助け出せるというんです。溺れかかった人がついに諦めると力が抜けます。力が抜けた状態だとその後のことはぐっとやりやすくなるっていうんですね。溺れかかった人は、ただ救助員に信頼して力を抜いて委ねることなのです。それによって救助されるというのです。
ところであなたは、ご自分でご自分を救おうとするのを諦めましたか。もしあなたが自分を救えるんだったら、神は莫大なエネルギーと痛みを無駄にして救い主を送るようなことはなさらなかったと思うのです。もしキリストを遣わし十字架であなたの身代わりにするという以外に他の方法があったなら、イエスは十字架で苦しむ代わりにその方法を選ばれたと思いませんか。この方以外に救いはないのです。だからこそ神はキリストを送ってくださいました。
あなたが今どんな恐れの中にいるのか、私はわかりません。しかしイエスはあなたを知り、気遣い、あなたが信頼するならあなたを助けることがおできになります。必要なことはキリストを信頼することなのです。
どうぞ、今こそキリストをご自分の救い主として信じ受け入れてください。心からおすすめします。
(ヨハネ3:16)