ごきげんいかがですか。尼川 匡志です。
さて聖書に、「受けるよりも与えるほうが幸いである」という有名なことばがあります。しかし、今日はあえて「与えるよりも受けるほうが幸いである」ということを考えてみたいと思うんですね。
聖書にマルタとマリアという姉妹が登場します。詳しくは分かりませんが、ずいぶん考え方や感じ方、性格が違うようです。
あるときこんなことがありました。イエスと弟子たちがベタニヤという村を通ったとき、彼女たちの家に招かれたんです。マルタは最大級のおもてなしをしようと張り切ります。準備のため目の回るような忙しさの中で、働いていたようです。ふと見ると、妹のマリアの姿がありません。変だな、と思って客間を覗いてみますと、なんとマリアがイエスの足もとで、話に聞き入っているではありませんか。マルタは腹が立ちました。イエスに、マリアに私を手伝うようにいってほしいと頼みます。そのときイエスはこう言われました。
「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
イエスはマリアの態度を、良いほうを選んだ、と評価しました。つまりマリアは良くて、マルタは間違っていたことになります。彼女が善意でスタートしたおもてなしですが、どこで間違ってしまったんでしょうか。今日はそのことを三つのことから考えたいんです。
一つ目は、マルタの考えていた最高のおもてなしとは何か。二つ目は、マルタはイエスを見ていなかった。三つ目は、マルタはイエスを家に迎え入れた。この三つのことを考えたいと思います。
マルタの考えていた最高のおもてなし
マルタの考えている最高のおもてなしとは、を考えます。
マルタはイエスを喜ばせたかったことは間違いないですね。そのために全力で働きました。それは素晴らしいことです。しかし彼女の熱心はいつの間にか、「自分のしていることは正しい」という思い込みに変わったようです。
私たちの考えはいつも正しいわけではありませんよね。しかし善意や熱心は、どうしても正しいという思い込みになってしまうようなんです。マルタは、マリアが自分と同じように食事の準備をしないことに腹を立てていました。「イエスの話を聞くマリアはだめで、今はおもてなしを最優先すべきだ」そう考えていたんです。そしてそのことをイエスは喜んでくださるに違いないと信じていたようです。
マルタは心からおもてなしをするために、イエスに家に来てもらいました。それは最高の食事と、くつろげる空間、それを提供することがイエスにとって一番良いことで、マルタとマリアができる最善のことと考えていたようです。しかしそれは、イエスにとって最高のおもてなしではなかったのではないでしょうか。マルタは自分の考えが正しいと思いこみ、マリアにもそれを押し付けていたんですね。
マルタはイエスを見ていなかった
二つ目のことを考えます。マルタはイエスを見ていなかった。
イエスと弟子たち、大人数のおもてなしは大変だと思います。私たちは忙しく働いているとき、何が一番大切なのかを見失ってしまうことがありますよね。マルタは夕食の時間を設定し、そのときまでに何人分の食事の用意をし、食卓を整え、どこに誰が座るのか、いろんなことを考えていたんでしょう。そしてこのままでは間に合わない、と思い煩い、心を乱していたんだと思います。このときイエスは喜んでマリアに話しておられたんです。
マルタがもしイエスをしっかり見ていたら、準備に追われる思い煩いも、マリアに対する不満も、出てこなかったかもしれません。しかし彼女はイエスではなく、自分の段取りに心が奪われ、一番大切なものを見失っていたんですね。マルタが自分の段取りにではなく、イエスに注目していたら、このような失敗はしなかったのではないでしょうか。一方、マリアはイエスを見ていたんですね。
マルタはイエスを家に迎え入れた
三つ目のことを考えます。マルタはイエスを家に迎え入れた。
マルタはイエスを心から尊敬し、おもてなしをし、お仕えしたかったんです。でも、忘れてはいけないことがありました。それは、私たちが神に何かをすることが大切なのではないんです。神が私たちを愛し、私たちに恵みを注がれること、このことが大切なんですね。
私たちは神の恵みと祝福を受け取ればいいんです。それを神は喜んでくださるのです。熱心な人ほど、このことがわからなくなってしまいます。イエスは、私たちに満たされたいのではありません。私たちを満たしたいんです。それは家でも、教会の建物でもなく、あなた自身の心を満たしたいんですね。神であるイエスがなぜ人となられたのか、おいしい食事を食べ、休息をとり、人に仕えられるためではありません。人間が抱えている、悲しみや不安、悩みや絶望から解放し、喜びで満たしたいんです。マリアはイエスの話を聞きながら、この方の愛と恵みを受け取っていました。それはイエスを心に迎え入れることだったんです。
しかしマルタはどうでしょう。家にイエスを迎え入れましたが、自分の心には迎え入れてなかったんです。イエスは言われました。「マリアは良いほうを選びました。」イエスの願いは、その人の心を満たすことです。この世の思い煩いから解放することです。しかしマルタはどこまでも、自分が何かすることが大切と考えたんです。大きな間違いでした。
聖書のことばをお読みしたいと思います。
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
イエスが願った食事は、この食事なんですね。イエスを心に迎え入れ、この方とともに過ごす人生を、マルタのようにではなく、マリアのように選択してくださることを、心からお勧めしたいと思います。
しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
(ルカ10:41-42)