ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて今からちょうど三十年前、ジム・アーウインという宇宙飛行士が亡くなりました。アポロ15号で月面着陸した人です。彼は地球に戻った時、宇宙飛行士を辞めてキリスト伝道者になりました。さて月面に降り立って地球を見たとき、彼は神を感じたというのです。
あるインタビュー雑誌でこのように語っています。「地球を離れて初めて丸ごとの地球を一つの球体として見たとき、それはバスケットボールぐらいの大きさだった。それが離れていくにつれて、野球のボールくらいになり、ゴルフボールくらいになり、ついに月からはマーブルの大きさになってしまった。初めはその美しさ、生命感に目を奪われてうっとりしていたけれど、やがてその弱々しさ、もろさを感じるようになった。見渡す限り死と暗黒の宇宙の中で、たった一点、地球だけが命に溢れる星なのだ。」
つまり彼が言いたいことは地球がいかに例外的な星であるのかということを、目で見て実感し、そこに人間を生かそうとする神の意志を見たというのです。
さらに彼はこうも言っています。「私は月面に降り立ったということで、世界中からもてはやされ、人々は私の発言に注目してくれる。しかし、もっと注目すべきことはこれです。この大宇宙を創造した方が一度人となって地球に生まれ、歩んでくださったことです。イエス・キリストこそ誰よりも注目されるべき御方です。」
今日は創造主なのに、人としてこの世に生まれたイエス・キリストについて考えましょう。聖書にこのように書いてあります。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
このみことばは神が、いかに人を愛してるかを語ってるところです。神はなぜ人を愛されたのでしょうか。三つのポイントで考えたいと思うんです。
人間は神の愛の対象
第一に、人間は神の愛の対象として造られているということがあります。
先月私は青森県に参りました。そしてそこで非常に聡明な高校生とお話をする機会があったんです。彼は宇宙の始まりを研究することを目指す、非常に有望な青年でした。
彼は私に次々と質問してきたんですね。「髙原さん、聖書は人間を中心に書かれているんですか。」「いや、神がすべての中心だということを伝えてるんですよ。」「でも聖書には神が人間を愛した、とか、困ってる人間を神が助けるとか書いてあります。」「たしかにそうですね。」「それって無理がないですか。宇宙の大きさを考えると、仮に神がいたとしても、ほこりのような銀河の、そのうちの点のような地球にうごめいている人間に注目するなんて、考えられないことだと思いませんか。そういう考えは人間の一方的な願望にすぎないんじゃありませんか。」
そこで私はこう答えました。「宇宙はたしかに広大無辺で果てしなく大きい。でもどんなに大きくても、自分が大きいということを自覚できないんです。単なる空間に過ぎないんですから。また太陽やそれに似た天体は途方もなく熱いです。核融合反応を起こしているんですから、それはそれは熱いですね。でも太陽は自分が熱い存在だということを知らないです。単なる水素の塊にすぎないからです。人間は宇宙よりも小さいし、太陽よりも脆い。でもそういう自意識を持ってるのは、人間には人格があるからです。存在の偉大さは大きさだけでは計ることはできません。人間には宇宙ができないことができるように、造られています。それは、神を呼んだり、神に祈ったり、神を信じたりすることです。神は人格のない宇宙とは別格の存在として、人間を創造してくださったと聖書は語っていますよ。」とお話しました。
彼はうーんとうなっていましたが、まあどこまで届いたのか、わかりません。でも私は自分の言ったことに確信を持っています。神はなぜ人を愛されたのでしょう。神に応答できる人格を持つものとして造ってくださったからです。
神は愛の源
第二に、神が人を愛するのは、神が愛だからです。
先日私は古い友人と一緒に、しゃれた和風レストランの座敷に通されたのでした。その壁に貼ってあった色紙に三行こう書いてあったんですね。「したい人一万人 始める人百人 続ける人一人」やあ、インパクトありましたね。したいと思う人の中で、実際行動に移して始めるのは、1パーセントだけです。そしてその1パーセントの中でやり始めたことを継続し続けるのは、1パーセントだけです。結局、ほとんどの人は、これいいなあ、すばらしいなあ、と思っても、それを継続することができる人は0.01パーセント、統計学でいったら意味のない数字です。つまりほどんどゼロに近いのです。途中でやめてしまうのには、いろんな理由があると思いますが、結局は自分の中の意欲が枯れてしまうからです。
ところで神は人を愛し、実行し、そしてそれを続ける方です。なぜ続けることができるでしょう。なぜなら神は愛だからです、というのです。神こそは愛の源です。そして神に枯れるとか、枯渇するということはないんです。人がどんなに薄情でも、またどんな罪人であったとしても、またどんなに神に対して無関心であったとしても、神は愛することをおやめにならない方です。なぜなら、神は、愛だからです。
手遅れの人はいない
第三に、神はなぜ人を愛されるのでしょう。それは人を、しかも罪人である人間を、ひとり子をお与えになるほどに愛された。それはこの神の救済がなければ、人は滅びてしまうからです。
ところで救急病院では、トリアージという考え方で受け入れ患者を識別していると言われています。特に災害医療で一刻を争うような場合、患者は4つの色で識別されるんですね。限られた医療資源を使って、一人でも多くの人の命を救うためです。医療資源を無駄にしないために患者を識別するんですね。赤色は今すぐ処置しないと死亡する患者、これは最優先で処置されます。黄色は、今すぐではないけれども、放っておくといずれ赤になる患者で、二番目に優先される患者です。緑は怪我をおってるけれども命に別状がない患者で、これは後回しです。そして黒は今すぐ処置しても、手遅れの患者です。一番ひどい状態ですが、手出ししません。医療現場では、ひどければ、ひどいほど優先されますが、しかし手遅れ状態の患者には、何もしないのです。今生きていても、救命できないんですね。
しかし、神の前には手遅れの人はいません。どんなにひどい罪人であっても生きている限り、神はその人に救いのチャンスを与えておられます。というのは、人はただキリストを自分の救い主として信じるだけで、救われるからです。そして信じるのに、どれぐらい時間がかかりますか。1秒も要りません。瞬間的に救われるのです。信じた瞬間に救われるために、神はキリスト・イエスをあなたの身代わりにしてさばかれ、墓に葬られ、そして3日目によみがえらせたのです。救い主として来てくださった方、その方のことを思い起こす機会、それがクリスマスなんですね。
ぜひあなたも、イエス・キリストをご自分の救い主として信じてください。心からお勧めいたします。
(ヨハネ3:16)