おはようございます。高原剛一郎です!
私は先日、言霊信仰についての本を読みました。
日本人は昔から起こって欲しくないことをことばにして出すと、本当にそれが実現すると信じているところがあるというのです。
ですから、結婚式では「切れる」「別れる」「割れる」といったことばは禁句です。
受験生がいる家では「すべる」「落ちる」がタブーですね。
そんなのバカバカしいと思っている人でも、実は知らず知らずの間に使っています。
言葉をすり替える
例えば会合や宴会などを終えるとき、「お開きにする」という言い方をしますね。
本当は「おしまいにします」「会を閉めます」ということですが、それでは縁起が悪いと考えて、あえて反対の「開く」という言い方をするようになり、それがすっかり定着してるんです。
川原に生えている芦は、葦簀の材料にもなる植物です。パスカルも「人間は考える葦」というふうに言ったんですね。
しかしこの「あし」は悪いの古語である「悪し」にも通ずるので、正反対の「よし」と呼ぶようになったんですね。
するめのことを「あたりめ」というのも同じ理屈です。
「する」というのがばくちではずしてお金を無くすことを意味する、その事につながるので、逆のあたりを持ってきて、「あたりめ」に変えたんですね。
避けようにも避けられないものがある
こういう現象は日本社会では随所に見受けられるのです。
しかしこれこそが日本の安全保障の障害になっているのではないか、と指摘する人もいらっしゃいます。
どういうことでしょう。起こって欲しくことは考えないようにすることによって、万が一のことに備えることができなくなってしまうというのです。
これは個人の人生についても言えることだと思うのです。その代表が、死につながることをいっさい隠すということです。
病院では4号室や、4番ベッドはなく、飛行機には4番シートがありません。
それは縁起の悪いものがあったら、本当に死んでしまうかもしれない、と恐れるからです。
しかし4という数字をどんなに使わないようにしていても、死は必ずやって来るのです。
十字架と復活
必ずやって来るものについては、考えないようにすることではなく、準備しておくことの方が賢明なのです。
しかし、死に対する準備など、できるんでしょうか。そんなものはあるんでしょうか。あるのです。
キリストは私たちの罪を背負って、十字架で死んで下さった後、三日目に復活することで、死を滅ぼしてくださったのです。
問題は、キリストが死後三日目によみがえったことが、本当のことなのか、迷信に過ぎないのか、ということです。
聖書の中にキリストが十字架処刑されて三日目の日曜日、よみがえったあと弟子たちに姿を現された記事が出てきます。
そこにはこのようにあります。
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸が閉めてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
落ち込んでいた弟子たち
復活したキリストが、自分達のところに姿を見せに来てくださるまで、弟子たちは完全に打ちのめされていました。
彼らだって、キリストが復活することを信じていなかったからです。
キリストが十字架にかかるまで、弟子たちは約3年間、キリストといつも一緒でした。
この方の手にかかれば、あらゆる難問が解決していくのを彼らは目の当たりにしていたのです。
どんな難病もひとことばで癒され、生まれつき不自由な体が、完全な健康体に変えられ、死人すら生き返らせる奇跡を見てきたのです。
ですからそのキリストが、みすみす十字架処刑されることなど、彼らは考えられなかったでしょう。
しかしこのあり得ないと思われたことが、目の前で起こったとき、彼らはすっかり何を信じてよいのかわからなくなったのです。
だまされたという思い
今は亡き毒舌落語家に、立川談志さんがいます。
彼はとにかく、自分の目で見たもの以外は信用しない人でした。
著書の中で、テレビはやらせ、新聞はウソと言い放っています。
「ものごとってなぁ、自分が見たものだけが本物だ。あとは全部うわさ話よ。」とよくおっしゃっていました。
しかし、どうして人の話を、頭から信じないようになったのでしょう。それは日本の敗戦だったのです。
子供のころ談志は、日本軍は連戦連勝を続けているという、この大本営発表を信じ切っていたのです。
なのに日本の本土は簡単に空襲を受けたのです。
まだ小学生だった彼は、東京大空襲を経験し、その目でその耳で、地獄を経験するのです。
母と兄の3人で避難する途中、川の中から聞こえてくる「助けてくれ」という声と、土手からの「助けてやれない」というが交差する中を必死で走ったというのです。
信じ切っていた発表が、真っ赤な嘘だとわかった彼は、それからは疑り深い人間になったとおっしゃるのです。
復活が事実と考えることが合理的
イエスこそ人となった神であり、全能の救い主と信じていた弟子たちは、このイエスが死刑にされ、墓にまで埋葬されてしまったとき、もう頭が混乱していたに違いないのです。
彼らは意気消沈し、また同時に当局は次に自分たちのいのちを取りに来るかもしれない、と恐れたのです。
そこへ両手両足に釘穴を残すイエス・キリストが、新しい体で姿を見せ「平安あれ」と語りかけて来られたのです。
自分の目で見、耳で聞き、手でさわれる方として弟子たちは再会を果たしました。
生前、語られていた言葉をそのときに思い出したのです。イエスは十字架で殺され、墓に葬られてから、よみがえる、と宣言されていたからです。
目の前で復活したイエスと語り合うことで、彼らは説得され、確信を持ち、勇気を得たのです。
だからこそ彼らは、この復活したイエス・キリストを宣べ伝えて行ったのです。
私はこのイエス・キリストの復活を信じています。というのは、それが一番合理的だからです。
どん底の状態にいた弟子たちが、殉教をものともせずに復活を宣べ伝えるように変わった理由を、復活のイエスとの再会以外に説明を見いだすことができないからです。
落ち込むほど喜びが大きくなる
昨年、日本最年長の現役ドクターだった、日野原重明さんが天国に召されました。
たくさんの本を残されましたが、その一冊に学生時代の思い出について書かれたものがあるのです。
京都大学の医学部を受験した彼は、合格発表を見に行くため、家を出ようとしていました。
するとそこに友人から電話がかかってくるのです。
彼は日野原さんの受験番号を知っていました。そして自分の合格を確認するだけではなく、ついでに日野原さんの合否を見に行ってみたというのです。
その結果「番号はなかったよ」というんです。内心自信があった日野原さんは、本当にがっかりしたそうです。
誰も近づくことができない程に落ち込んだのですが、やがて大学から連絡が入ったのです。
「合格しているのにどうして手続きに来ないのですか?」というのです。
実は当時の医学部受験には、二つのコースがあったのです。
友人はそれを知らずに、もともと日野原さんが受けていない方のコースの合格掲示板を見て、早合点したんですね。もう一つの方にはちゃんと受験番号がありました。それが分かったとき、喜びが爆発したそうです。
がっかりした気持ちが深かった分、それをくつがえす事実に向き合ったとき、天にも昇るような喜びになったというのです。
キリストの復活による原動力
初代教会のクリスチャンたちは、破竹の勢いで広がっていき、ついにはヨーロッパ大陸全土がキリストの福音に圧倒されていくのです。
その原動力は何でしょう。キリストの復活がもたらしたものです。
キリストはあなたのために死なれました。そして文字通りよみがえられたのです。
どうぞあなたも、よみがえったイエス・キリストを信じてください。心からおすすめいたします。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸が閉めてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。」
(ヨハネ20:19-20)