おはようございます。高原剛一郎です!
私の学生時代の愛読書の一つは、司馬遼太郎さんが書いた「竜馬がゆく」でした。
 ご存じ坂本龍馬の一代記で、何回も何回もむさぼり読んだことを覚えています。
 ところですぐれた作品に出合って感動すると、そのすぐれた作品を作った作者に会いたいと思うようになりませんか。
 実は私は大学生のころ一度だけ、司馬遼太郎さんに会ったことがあるのです。
 東大阪の商店街を歩いていた時のことです、前方からまっ白なおかっぱ頭の人物が、てくてく歩いて来るんです。
 すぐにわかりました。憧れの司馬さんです。

司馬遼太郎 (1923-1996)
わたしと司馬さんの距離はどんどん近くなっていきます。
 しかし司馬さんは何事もなかったようにスーッと通り過ぎて行かれました。
 私が話しかけなかったからですね。ではどうして声をかけることができなかったのでしょう。
 それは司馬さんが、私と会うためにその道を歩いていたのではなかったからです。
 彼は私のことなど全く眼中にありませんでした。何か考え事をしながら歩いておられたようです。
 私は彼の考え事を邪魔する勇気がなかったのですね。
 しかし、もし司馬さんの方から私にことばをかけていてくれたらどうでしょう。
 「君は愛読者の高原君じゃないか。噂には聞いていたけど、ちょっとコーヒーでも一杯どう?」なんて言われたら、10杯でも20杯でもお願いしますと言って、喜んでついて行ったことでしょう。
人となった愛に来られた方、イエス・キリスト
しかしそんなことはまず起こりません。
 しかし聖書は、本来起こりえないようなすごい出会いを、神様は準備して下さっていると言うのです。
 すなわちこの全世界をお造りになった作者なる方が、あなたを目当てにして、あなたを目的にしてこの世界に来て下さったというのです。
 全宇宙の作者でありながら、作品である私と出会うために、人としてこの世に来られた方。それがイエス・キリストです。
 聖書にはこのように書かれています。
しかし、あなたがたは神によりキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義ときよめと、贖いとになられました。
もしこのラジオをお聞きの方の中に「学生時代成績が悪かった」という方がいらっしゃっても、心配する必要はありません。
 キリストがあなたにとって神の知恵となってくださるからです。
 神の知恵とは全知全能の知恵で、どんな天才も到達できない完ぺきな賢さのことです。神はキリストという神の答えで、あなたをおおってくださるのです。どのようにして下さるのでしょうか。
義となり、きよめとなってくださる
第一にキリストがあなたの義となってくださる。
 義というのはあなたの罪を、キリストが完全に洗い流して、神の前にどこにも罪が見当たらない立場を与えてくださるというのです。
 第二にキリストはきよめとなってくださる、というのです。
 このきよめというのはキリストの人格に似せられていくことです。キリストのいのちで生きることができるように、私たちを変えてくださるのです。
廃車のメンテナンス
私が好きな海外の番組に、レストアを扱ったものがあります。レストアとは元に戻すという意味があるんです。
 特にその番組では、今から60年も70年も前の廃車を買い取って、外観をそのままに残しながら、快適に走れるようにする様子が紹介されてるのです。
 引き取った時には錆びだらけで、エンジンもかからない、雨ざらしで塗装は剥げ落ち、内部はネズミの糞だらけで、時折ミイラ化したネズミが出てくるのです。
 映像では伝わって来ませんが、猛烈な悪臭があり、作業するスタッフたちは顔を歪めて取り組んでいるのです。
 それでも時間とともに車は見ちがえっていきます。
 ブレーキをディスク式に交換し、高出力エンジンを搭載し、車高を低くし、艶のある塗装にして現役のクルマとして生き返っていくんですね。
 最終的には生き返った車はオークションに出品されて売られるのですが、かつて鉄くずみたいな車が、ファンによって超高額で競り落とされていくのです。
スクラップを生き返らせる
ところが時々、かけた費用に見合わない安値でセリ落ちてしまう時もあるんです。
 しかしレストアの業者は「金のためだけでやってるんじゃない。俺たちはスクラップをお宝のクルマに生き返らせるのが好きなんだ。」というのです。
 レストアのためにはまず買い取られたうえで、つもりつもったごみやネズミの糞を、きれいさっぱりぬぐい取らなければなりません。そうでないと次の工程に移れないのです。
キリストの血によってレストアされた
それと同じように神は、罪にまみれた私たちを超高額な値で買い取り、私たちの罪を、痕跡一つ残さずぬぐい取ってくださいました。
 どのようにしてでしょう。キリストの血によってです。
 キリストの血はすべての罪を洗いきよめるのです。そしてこのキリストの血は、キリストが十字架につく中で、流されたのです。
 全く罪のない方が、あなたの代わりに死んで下さったのです。
 いや死んで償ってくださっただけではなく、三日目によみがえってくださったのです。
 このキリストのしてくださったことを信じる時、私たちは罪なき者と認められるのです。
 そればかりではなく、キリストは信じた者の心の中に、聖霊を宿らせ、私たちが新しいいのち、罪に打ち勝ついのち、天国をこい慕ういのち、神を理解するいのちを与えてくださるのです。
 それは一度スクラップだった車が、新しいエンジンを積んで、現役で走り回る車になるようです。
 キリストこそあなたをレストアしてくださる方なのです。
死なないからだが与えられる
第三に、キリストは私たちの贖いとなられるということです。
 ここで言う贖(あがな)いとは、肉体の贖いのことです。
 贖われたからだとはいったいどんなからだでしょう。これはまだ誰も経験していませんが、やがてキリストが再び来られる時に、キリストを受け入れている者の上に実現するからだなのです。
 それは罪を犯さないからだです。老いることも、病むことも、弱ることもないからだです。
 それは天国にふさわしいからだです。地上で受けたすべての傷がいやされたからだです。
 そして何よりも決して死ぬことがないからだなのです。このからだをもってキリストは復活されました。
 つまり、よみがえったキリストと同じからだを持つというのです。それが起こるのはキリストを受け入れた人たちだけです。
 そしてそれは、キリストが再び来られる時に起こるのです。
寒い夜に流星を待ち構える人たち
毎年11月の下旬になると、しし座流星群を日本でも見ることができます。
 あるクリスチャンの大学教授が、原稿書きを終えて寝ようとすると、奥様が外出を誘ってきたそうです。
 時計を見ると夜中の3時なんですね。ぶつぶつ言いながら、職場である大学のキャンパスに行きました。
 というのは、そこには小さな芝生の丘があって、星を見るのによいと思ったからです。
 ところがその丘に着いてみると、びっくりしたというんですね。何と200名近い学生達が集まって、めいめい星の観察に備えていたというのです。
 暗やみの中、時どきしし座流星群が夜空を横切ります。そのたびに「見えた」とか「どこ」とか、騒ぎになるんですね。
 初めは寒い夜中に連れ出されたことに不満がありました。しかしだんだん心が温まってきたというのです。
キリストを待ち望む
「暗やみを照らす星が、いつ来るか、いつ来るか」と待望する人々の集まりの中で、からだの贖いを携えてまもなく来られるキリストを待つ自分が重なったからだというのです。
 キリストはまた来られます。
 その時、贖いのからだをいただく者となっていただきたいと願っています。
 どうぞあなたもイエス・キリストを信じ、心に受け入れて下さい。心からおすすめします。
(コリント人への手紙第一1:30)


大和田広美:主は私の羊飼い






























