ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
ところで、私が愛読している聖書は2154ページもあります。だから紙の本としてはずいぶん分厚い代物なんですね。この聖書の中で、特に頻繁に登場する言い回しに「しかし神は」ということばがあります。聖書の中に何と3930回も出てくるんです。それだけ重要なフレーズなんですね。
すべてが行き詰まり、何もかもが終わってしまったように思えるとき、「しかし神は」、すべての絶望をどんでん返しされるのです。アダムとエバは罪を犯して、エデンの園を追放されます。「しかし神は」、そっと救いの約束を告げてくださるのです。もうすぐ大洪水が来ます、「しかし神は」ノアに箱舟の知恵を授けてくださるのです。すべての人は罪を犯しました、「しかし神は」イエスキリストを救い主として与えてくださったのです。何の希望も無くなり、一巻の終わりの状況の中で、「しかし神は」が登場すると、すべては変わってしまうのです。そこで今日、「しかし神は」が出てくる個所をご紹介いたしましょう。
それはイエスが十字架にかかって約二か月後のことです。キリストの弟子であったペテロは、キリストが十字架処刑されたエルサレムという町で、それを目撃していた多くのイスラエルの人々に向かって次のようにメッセージしたのです。
あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺したのです。しかし神は、このイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
ここから三つのポイントでお話ししましょう。
失われた光ファイバー技術
第一に当時のイスラエルの人々は、聖なる正しい方、何一つ罪を犯したことのない方を十字架で死刑にしてしまったのです。一体それはなぜでしょうか、ということなんです。なぜイエスに躓いてしまったのでしょう。それはイエスをただの人間だとみなしてしまったからです。
昔、東北大学に天才的な教授がおられたんですね、西沢潤一さんです。彼は光ファイバーの原理を発見した方です。ガラスの中を走る光に、情報を載せて伝えることができる光ファイバーを、西沢博士は昭和30年代に発見しそれを日本の特許庁に申請したんです。
ところが西沢博士のあまりにも先進的なアイデアに対して、特許庁の役人がついていくことができず、何と却下してしまうのです。そこで西沢博士は役人にもわかるように書式を変え、表現を書き改めて申請します。しかしちんぷんかんぷんの役人は、またしても却下するのです。さらに書類を改良してまた提出するのですが、またまた却下。これを約二十回も繰り返しますが、すべて却下されてしまうのです。結局、光ファイバーの特許はアメリカに奪われ、また西沢博士からアイデアを借りて実用化に成功した中国人学者はノーベル賞をもらうんですね。こうして日本は光通信の基礎技術から本来得られたはずのものをすべて失うことになってしまったのです。
理解できないものは判断できない
ところでどうして却下されたんしょう。判定者の頭が、西沢博士のアイデアを、全く理解できなかったからです。
人間は自分の能力に収まる範囲のことについては判定できますが、自分の能力をはるかに超えるものに対しては、正しい判断ができません。凡人の判定者によって、西沢博士の発想は天才のそれではなく、妄想にしか見えなかったのですね。西沢博士を、変わった学者と見損なっていたということが、彼を正しく評価できなかった原因なんです。
多くの人にとって、イエス・キリストは永遠の謎です。その最大の理由は、イエスをただの人間と見なすからです。単なる人であるなら、イエスの行動も、イエスの発言も変にしか見えません。何しろイエス・キリストは初対面の人間に向かって、「あなたの罪は赦された」と言うんですから、「あなたいったい何者なんですか」ということになるんですね。
当時のユダヤ人たちはイエスを気が狂った者のように扱い、そうして十字架処刑してしまったのです。
しかし神は
第二に、「しかし神は」なのです。人はイエスを十字架処刑にしました。殺してしまったのです。「しかし神は」、このイエスを、死者の中からよみがえらせなさったのです。
今まで、蘇生した人はいるでしょう。いったん心臓が止まって10分、20分後に息を吹き返したという方はいらっしゃることでしょう、しかしイエスは死後三日目によみがえられました。これによって、ただの人ではない、人となった神の御子であるということを明らかにされたのです。
体験した人の説得力
第三に、このペテロの証言によって、五千人以上の人々がイエスを救い主として信じました。なぜならペテロのメッセージは、作り話や哲学のお話ではなく、彼自身が経験し、目撃したことを証言したことであったからです。
1960年アルゼンチンという国で、一人の男がイスラエルの諜報機関モサドによって捕らえられ、そしてイスラエルに連行されました。アイヒマンです。彼こそは数百万人のユダヤ人を強制収容所に移動した責任者でありました。逮捕の翌年、1961年4月からイスラエルで公開裁判にかけられるのです。その様子は全国テレビ中継されました。ところがほとんどのイスラエルの人たちは、またほとんどの世界中の人たちも、この裁判には注目しませんでした。なぜでしょう、実はこのときソ連のガガーリンが人類史上初の有人宇宙飛行に成功したからです。世界中は彼の語った「地球は青かった」に感銘を受け、熱狂し、そして繰り返し流される特集番組に目がくぎ付けになってしまったのです。そういう華々しいニュースが一世を風靡していたため、過去の戦争犯罪人のことを裁く裁判なんかに目もくれなかったんですね。
ところが絶滅収容所の生き残りの人たちが、ひとりひとり証言を始めると、空気が一気に変わるんです。その証言の内容があまりにも生々しく、恐ろしく、想像を絶する内容でありながら、しかも同時に裏付けの取れる正確な証言であったからです。次第にすべてのイスラエル人が、この裁判にくぎ付けとなっていきます。そして人間の善良性について、考えを改めざるを得なくなっていくのです。それを目撃し、体験した人の言葉には独特の説得力があるんですね。
キリストの復活の体験
さてペテロは、キリスト復活の証言をしたのです。キリストが十字架にかかって、二か月ほどしかたっていないときに、彼はキリストが十字架にかかる前のこと、キリストが逮捕されたその瞬間のこと、また復活したキリストと出会ったことを、みな語ったんです。
それは本で読んだことを語ったのではなく、自ら体験したことを証言したのです。しかもその証言には、大きな力がありました。彼はいのちの躍動に満ちていたのです。
もしあなたが自分の大事な人を亡くして、二か月後、どんな心境になっていると思いますか。今は亡き人の思い出で、悲しみに沈んで、喪失感で心がへし折れてしまうのではありませんか。しかし彼はそのようなタイミングの時期において、喜びと確信をもってイエスキリストの復活を宣べ伝えたのです。彼の証言を確かめることはすぐにできるエルサレムで、それを宣べ伝えたんですね。
キリストはまさしく死からよみがえりました。あなたを責めるためではなく、あなたを永遠のいのちに導くためです。どうぞあなたもあなたの罪のために死に、またよみがえったキリストを信じて、赦しと永遠のいのちをいただいてください。心からお勧めいたします。
(使徒3:14~15)