ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて先日、私は海外の短編小説を読みました。それは裁判ものの小説です。
あるアパートで、大家である老夫婦が殺されたうえで金を盗まれるのです。
容疑者はアパートの住人だった25歳の男で、定職につかずにふらふらしてます。
金に困って盗みに入ったところ、老夫婦に見られたので殺してしまうんです。
無実を訴えていますが、裁判では死刑が確実だと思われていました。
ところが、ここに天才的な弁護士アダムズが登場するのです。
そして彼に弁護を頼んだのは、被告人本人ではなく、ある大企業の社長だったのです。
実は被告はこの社長の隠し子だったのです。そして、社長には子供が彼一人しかいなかったのです。
「無罪は無理でも、せめて死刑だけは勘弁してやって欲しい。報酬は弾むから何とかしてやって欲しい」と依頼されるのです。
そこで弁護士アダムズは、何としても死刑を免れる判決を得なければなりません。
懲役20年を勝ち取る
せめて懲役20年を勝ち取りたい、しかし、それは易しいことではないのです。そこで彼は奥の手を使うのです。
それは陪審員一人を買収することです。
その国の制度では陪審員全員の考えが一致するまで話し合いが続けられます。
そして有罪か無罪かだけではなく、何年刑務所に入るのか、死刑にされるのかも決められてしまうのです。
さて陪審員の一人に最近会社をリストラされ、失業保険で暮らしている30歳の男性を見つけるのです。
妻と3才の娘がいるので経済的にも苦しいはずです。
アダムズは正体を隠して「何とか懲役20年に持ち込んでくれませんか。それが出来たらお礼をはずみますよ。」
「分かりました。やってみましょう。」こうして裁判が始まります。
アダムズは被告人の生い立ちの不幸を材料に、熱弁をふるって弁護しました。
そして、ついに陪審員の評議が始まったのです。そして長い長い議論の末、結論が出ます。
「有罪、懲役20年。」被告人は死刑を免れたのです。
陪審員の評議の真相
さて数日後、アダムズは再び変装して協力者の男に会いに行き、「ありがとう。あなたのおかげでこっちが望んでいた判決になりましたよ。」
「いやあ苦労しました。」
「そうでしょう。説得するのが大変だったでしょう。」
「ええ大変でしたよ。だって私以外は皆、無罪だと言うんですから。」
「はあ!」
「いやあ陪審員の一人で頭の切れるのがいて、被告人は無罪だと言いだし、皆もそっちに傾いたんです。」
「どういうわけですか。」
「いやあ、その男が言うには被告人の親友が怪しい。間もなく子供が生まれる親友をかばって彼は罪をかぶった。そう考えると何もかもつじつまが合いだしたんです。」
それを聞いたアダムズ自身も被告任の無罪を確信するんです。その方が合点がいくからです。
しかし協力者は言いました。「でも大丈夫です。私は心を鬼にして皆を説得し懲役20年を勝ち取りましたから。」
この天才弁護士はやれるだけのことを全部やる努力家です。そして、その努力の結果、望んでいる結果を手に入れます。
しかし、それは最悪の結論です。被告人の父親を喜ばせるためにしたことは、かえって父の心を悲しませることになりました。
何もしなければ無罪になれていたのに、20年間も刑務所に入らなければならなくなったからです。
父親を喜ばせるために努力すればするほど、父の願いを粉砕する結果になってしまったのです。
人間の努力と聖書の基準
そして、この短編小説が私の心に残ったのは、聖書が同じことを私たちに警告しているからなのです。
神様を満足させ、喜ばせ、神に受け入れてもらうために人間はありとあらゆる努力をします。
どんな努力でしょう。宗教上のルールを守ると言う努力です。
しかしどんなに頑張って聖書の基準に到達しようとしても失敗以外にありません。
聖書はこう語っています。
しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
ここから三つのポイントでお話ししましょう。
キリストが身代わりに死なれた
第一に、キリストは私たちに代わって人が守らなけらばならない掟を守ってくださったということです。
聖書では誰かと契約を結ぶときには動物を殺して、「もし私が約束を守らなかったら、この動物のように殺しても結構です」と言ったのです。
神は人間とそんな約束をして、「わたしはいつまでもあなたを愛しているよ」と言われました。
そして私たち人間の側も、「神をいつも愛します」と約束を実行することを神は望まれたのです。
ところが、人間の先祖は神から離れ、一方的に約束を破棄しました。
結果として約束通り人は死ななければならなくなったのです。
しかし、神は人の命を助けてくださいました。どのようにしてでしょうか。
約束をなかったことにすることによってでしょうか。そうではありません。
神ご自身が人間の側に来て約束を守り、神の御子イエス・キリストが私たちの代わりに死んでくださることによってです。
キリストが私たちのために死んでくださったことで、私たちは神との約束を守った者とみなされるのです。
主とともに歩む人生
第二に、キリストを信じる人にはキリストがその人の心の中に移り住んでくださるのです。
このキリストの力で、自分の力ではできなかった良き生き方をすることが出来るように少しずつ変えられていくのです。
ところで私は、寒い冬にはなんと言ってもミネストローネと粕汁がありがたいですね。
どっちも私の大好物です。体の芯からぽかぽか温まるからです。
しかし、私が粕汁を自動車に入れたらどうなるでしょう。確実にエンジンは壊れますね。車はガソリンで動くように設計されているからです。
それと同じように私たちの人格、私たちの心は、キリストをエネルギー源として注入していただく事でまともに作動するようにできているのです。
神は私たちを神と共に歩むように初めから造っていてくださったのです。
キリストを救い主として受け入れるなら、キリストの霊は信じた人の中に宿ってくださるのです。
そして主と共に歩む人生が始まるのです。
キリストを信頼して受け入れる
第三に私たちに必要なことは、私を愛し私のためにご自身を与えてくださった神の御子を信頼することなのです。
自分の努力で神を喜ばせようとしても息切れします。神に愛してもらうために走り回る必要はありません。
神はすでにキリストにあってあなたを愛しておられるのです。神は私たちがどんなに努力しても出来ないことを代わりにしてくださったのです。
神はキリストにおいて私たちの代わりに償いをし、私たちに代わって正しく生き、私たちに代わって神の満足を完全に満たしてくださったのです。
この完全なるキリストを信じる全ての人を、神はまるでキリストご自身を見るかのようにご覧になってくださるのです。
どうぞあなたも、あなたのためにいのちまで捨ててよみがえってくださったイエス・キリストを、ご自分の救い主として信じ受け入れてください。心からお勧めします。
(ガラテヤ2:19-20)