#956 キリストに信頼して一歩踏み出す

メッセンジャー似顔絵

おはようございます。髙原剛一郎です。

さて、大リーグのイチローがまだ日本のプロ野球チームにいた頃の話です。ホームラン王争いのトップに立っていた選手がそのプレッシャーをイチローに打ち明けたのです。
重圧に押しつぶされそうになっていたからです。その時イチローは「ホームラン王になりたくて、野球をやってるんですか。」と訊き返したそうです。
誰かに勝った時ではなく、自分が定めたものを達成した時に満足できる、というのがイチロー選手の発想です。
人と比べるので焦っている選手に、角度のするどい質問をすることで、重圧の乗り越え方を伝えたんですね。

カット

人と違う発想を持つイチロー選手

人間が持つ固定概念

ところで、聖書の中には人間が固定概念のように持っている偏見を、イエス・キリストが見事に打ち崩していかれる記事がたくさん出てくるのです。その中にこのようなものがあります。
ある時イエスが道の途中で、生まれつきの盲人が物乞いをしているのを見るのです。


弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生、彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」

私たちは悪いことが起こってる人は、何か過去に悪いことをしたからだと考えやすいですね。所謂、因果応報の考えです。そしてその犯人探しが始まるのです。

だれもつけようとしなかったゴーグル

イタリアのある化学プラントメーカーの話ですが、この会社では、作業中、目の中に異物が入るのを避けるため、作業員全員にゴーグルの着用を義務づけていたのです。
しかし、実際にはこのルールはほとんど守られていませんでした。
経営幹部や現場監督がゴーグルを着けろと命じても、現場ではいつしか、それを着けずに外してしまうんです。そこで会社では、解決のための会議が開かれたのです。
作業員の根性をたたきなおす研修を行おうという声もあれば、作業員を悪者扱いすること自体が問題ではないか。作業員より監督の指導のほうがまずいんじゃないか。
悪いのは作業員なのか。監督なのか。両方なのか。いや、経営幹部がそもそも悪い、など。犯人捜しが始まって、議論は堂々巡りで結論が出なかったというのです。
そこで外部からコンサルタントを招いたのです。コンサルタントは社員たちに問いかけました。
「何が問題ですか。」
「作業員がゴーグルを着けないことです。」
「そうですか。では何が解決ですか。」
「作業員がゴーグルを着けるようになることです。」
「そうですか。ではどうしたら、それが実現できるでしょうか。」
「それがわからないから、あなたを呼んだんでしょう。何言ってるんですか。」
ところがその時、誰かが冗談交じりに言ったんですね。「かっこいいゴーグルがあったら、みんな着けるんじゃないか。」
別の人がその発言に反応しました。「イタリアの男にとって、かっこいいか、かっこ悪いかは、一番重要な問題だ。これはもしかしたらいいアイデアかもしれないぞ。」
「じゃあ、ミラーのレイバンみたいな、いけてるサングラス風のゴーグルはどうだ。」
さっそく試しにおしゃれなゴーグルを作り、一つの班にだけ渡したみたのです。するとその班のメンバー全員が喜んでゴーグルを着けたのです。
それで幹部は超いけてるゴーグルを、作業員全員に配ってみました。するとみんなが喜んで着けるようになったばかりか、ゴーグルを着けなくてもいい場所でも、ゴーグルを着けるようになったというのです。

3つの不毛な質問

ところで、私たちは悪いことが起こった人を見たり、悪いことが続いたりすると、その原因捜しにこだわるところがあります。その結果、次の三つの質問をするようになるのです。
一つ目は、なぜ、です。なんでこんな目に私が合わねばならないのか、なぜ同僚は手抜きをするんだ、なぜあの人は私の邪魔ばっかりするんだろう、なぜあの人は挨拶しても返してくれないんだろう。
物事が行き詰っている時、なぜなんだろう、なぜなんだろう、と問い続けていると、落ち込みます。それは被害者意識にとらわれていくからです。
過去と他人は変えることはできないのに、なぜ変わらないのかと疑問を持つのはまさに不毛の質問なのです。こんな問いとはさっさとおさらばすべきなのです。
二番目の問いは、いつになったら、です。いつになったら返事がくるんだ。いつになったら商品が届くんだ。いつになったらこの状況は変わるんだ。
いつになったらと悶々としているなら、それを実際にたずねてみることです。できることをしないで、ただまわりが動いてくれることだけを期待している人の人生には、何の変化も起きないからです。
三つ目の問いは、誰のせいでこうなったか、です。誰が間違えたのでこうなったのか。誰が私をこんなふうにしたのか。「こんな女に誰がした」という演歌が昔ありましたが、それは自分自身を、過去と環境の奴隷に貶めてしまう、罠の質問なのです。
一体誰のせいで盲目に生まれついたのだ、という弟子たちのこの心ない質問に対して、キリストは直接、答えておられません。
そこには何の解決もないからです。その代わり、こうおっしゃったのです。「神のわざが現れるためです。」と。
人は神の栄光のために造られました。人生は神の栄光を現すために与えられているものなのです。人間の上に降りかかる問題は、人が神のもとに立ち返り、神の力を授かることで、神の偉大さを現すために与えられているもの、あるいは許されているもの、なのです。
問題は人生の苦難の責任を神に問いただすのではなく、私自身がこの苦難や問題に問われている者へと変わることなのです。
神を被告人の席につけて、なぜなのですか、と詰問するのではなく、私たちの方が神に問われている立場に身を置き換えることなのです。

一歩踏み出すことが必要

実は先ほどの聖書の記事には、続きがあります。キリストはこの盲人の目に、泥を塗り、そしてシロアムの池に行って、洗いなさいと言われるのです。
盲人はキリストのことばを信じ、手探りしながら、はるか離れた池まで歩いて行くのです。
道行く人々はみな彼をあざ笑ったことでしょう。しかし彼はキリストのことばを信じて、その池で顔を洗うと、目が完全に見えるようになったのです。
生まれつき見える人には、見えるということはそれほど感激すべきことだと気が付かないことです。
しかし、彼は盲目から突然、フルカラーで見える世界を経験するのです。そして彼が見えたのは、この物理的世界だけではなく、イエスのことばの力を、経験で知り、イエスこそ救い主であるということが、見えたのです。
彼はキリストのことばを信じて、前に向かって歩み出しました。するとその先に、キリストの神としての力と救いを経験するというものが待っていたのです。必要なことは、キリストのことばを信じて、一歩踏み出すことなのです。
説明を聴いているだけでは、人生は変わりません。答えは未来にあるのです。

信じれば人生が変わる

『日本一短い手紙 大切ないのち』という本の中に、愛知県の主婦の文章が掲載されていました。
「今まで私をふってくれた人たち、ありがとう。おかげでこの息子に会えました。」
過去に人に傷つけられた、そういう思い出があったのでしょう。しかし、未来に向かって行く時、思いがけない答えがあることをうたっているんですね。
キリストは生ける神です。この方のことばに従うなら、私たちは確実に人生が変えられます。その答えは、キリストを信じた後に続くものです。
どうぞあなたも、イエス・キリストをご自分の救い主として、心に受け入れてください。心からお勧めします。


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Saki:選択

今日のみことば
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生、彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」
(ヨハネ9:1-3)