
ごきげんいかがですか。慶相龍です。
さて、百人以上のクリスチャンに聖書の中で好きな人物は誰ですか?というアンケートをとりました。一位は誰だと思いますか?ダントツでペテロだったんです。彼は熱意があってイエス・キリストが大好き。でも実は弱くておっちょこちょいで、失敗をたくさんして、死刑にすることをたくらむ者たちがイエス・キリストを捕らえたときに、自分を守るためにキリストを裏切るようなことまでもしたのです。しかし、十字架で死んで三日目に死からよみがえったキリストを目撃してからは、彼の生き方にブレはなくなりました。命の危険を顧みず、死に至るまでキリストの十字架と復活を証言し続けたのです。彼はそのブレブレの弱さのゆえに、私たちに親しみを与えてくれるとともに、そんな彼が神によってブレない人生に大転換されたことを通して、私たちもブレない人生に大転換することができるという、希望を与える人物でもあるのです。
彼の書いた、ペテロの手紙第二の1章19節、21節を紹介します。
また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。 預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。
ペテロが記したこの聖書箇所を適用してブレない人生を自分のものにするための教訓を得たいと思います。三つのことを考えましょう。
聖書はブレることも変わることもない神のことば
一つ目に、聖書はブレることも変わることもない神のことばです。作家の太宰治の作品に、『駈込み訴え』という小説があります。キリストを裏切ったイスカリオテ・ユダの思いを、太宰の視線で記した作品なのです。聖書の内容に忠実とは言えないのですが、小説としては男と男の愛憎を綴ったすぐれた作品なのです。実はこの作品は酒に酔っていた太宰が、しゃべったことを妻の美知子さんが書き取って完成した小説なのです。太宰は酒に酔いながらも、よどみもなく、言い直しもせずこの小説を口述したというのですから、恐ろしい才能ですよね。ところで、この小説の原稿を書いたのは太宰の奥さんです。しかしだからと言って、作者を妻の美知子さんと考える人は誰もいないはずです。同じように聖書を書いたのは、ペテロなどの聖書記者です。だからといって聖書の作者を、ペテロなどの聖書記者であるとは誰も言えないのです。聖霊によって聖書記者にことばを与え、書かせた神こそ、聖書の作者だと言うのです。移り変わる人間の言葉ではなく、永遠に変わらない神のことばだからこそ、聖書は人生におけるブレない土台になるのです。
神秘的な体験を人生の土台に据えてはならない
二つ目に、神秘的な体験を人生の土台に据えてはならないということです。ペテロはかつて限られた人たちだけに許された、特別で神聖な神秘的な体験をしました。しかしそんなペテロがこう書いたのです。「私たちは、さらに確かな預言のことばを持っています。」どのように素晴らしい体験をしようが、聖書こそ確かな人生の土台なのだと、ペテロは言うのです。亡くなった私の母は、肩の手術をするために入院したことがあります。彼女は全身麻酔を恐れていました。かつて医療事故寸前の危険な目にあったからです。手術の前日に母の病室を訪ねました。すると母は私を近くに呼び寄せて、ひそひそとこう言ったのです。「私、イエス様見た」。私は怪しいことを言っていると思ったのですが、頭ごなしに否定はしませんでした。そして「そうか、どんな感じやった」と尋ねました。すると「岩の上に立って、こっち見てた」て言うんです。さらに尋ねると、「黒い服を着てた」と言うのです。ここまで聞いて、私はそれ絶対違うと思ったんですが、当の母は「イエス様が私を守ってくれてると思うねん」と言いながら喜んでいるんです。しかし、それはどのようにも解釈することができる体験と、日々変化する感情に基づいた喜びだったのです。私はそれを機会と捉えて、聖書によってキリストを伝えました。「キリストがお母ちゃんを守ってくださるのは間違いない。でもそれだけではなくて、キリストがお母ちゃんの罪のために死なれたこと。三日目に復活してくださったこと。キリストを信じるなら、キリストのおかげでお母ちゃんの罪が赦されて、やがて復活のキリストと同じ死なない体が与えられて、罪のない天に引き上げられること」すると母は聖書の約束に基づいて、素直にキリストを「わが神、わが救い主」と告白したのです。母はそれ以来、ガンでこの世を去るその日まで、キリストがいつまでも永遠にともにいてくださる人生に疑いを持ったことがありませんでした。変わらない神のことばである聖書に基づいた、確かな喜びを持ち続けることができたのです。
神秘的な体験は、ときとして私たちを聖書に導くきっかけになることがあります。しかし、不思議な体験そのものを、人生の土台にしてはならない。ペテロはそう注意を喚起しているかのようです。
ブレない目標によるブレない人生
三つ目に、聖書はブレない目標を設定して、ブレない人生をあなたに与えようとしています。ドイツの、ヤン・スーマンという方が率いる研究チームがリサーチしたところによると、人間は目印がないと、どれだけ頑張っても円を描いて堂々巡りしてしまって、どうやっても道に迷ってしまうそうです。そしてこれが山で遭難事故が起こる、大きな原因の一つだそうです。ブレない人生とは、目標地点が定まった人生とも言えます。合格、良い就職先、幸せな結婚、出世や事業成功など、どれもより良い人生を生きるために貴い目標だと思います。
ところで聖書が与える人生の目標地点とは、人生のある期間における短期的で実現するかどうかわからない、そのような目標ではありません。キリストを信じ従う人に、必ず実現する、人生の総決算としての幸せな目標地点なのです。たとえ夜のような暗い人生が続くとしても、明けの明星であるキリストが現れて、クリスチャンを天に引き上げてくださるときが必ず来ると聖書は約束しているのです。まるでおとぎ話のような約束ですけれども、クリスチャンは信じています。なぜなら人類が始まって六千年余りの歴史の中で、神様の約束、神様の預言が実現しなかったことは、今このときまでただの一度もなかったからです。今後のことについて聖書が預言している約束が必ず実現すると考えるのは、非常に合理的だからなのです。キリストがやがて天に引き上げてくださるとき、そして一人一人にこの地上での生き方に応じて、必ず称賛を与えてくださるとき、そのときを目標にして、天に宝を積むように日々を大切に生きること。これがブレない人生、必ず報われる勝利ある人生であると聖書は教えてくれています。あなたの罪のために死に、三日目によみがえり、天に上られ、あなたを天に引き上げるそのときを心待ちにしておられるキリストを、あなたの神救い主と信じ、神の与えるブレない報いある人生をどうかあなたのものにしてください。
心からお勧めいたします。
(2ペテロ1:19、21)