#1310 新しい希望と祝福への道ーイエス・キリスト

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

はい、みなさま、こんにちは。
あの、実はある方に勧められまして「ポッドキャスト」というのを聴いてるんです。まあ無料で聴ける音声配信サービスなんですけどね。そこでね、あの人間の顔面の黄金比についてやってたんですよ。でこの黄金比っていうのは人間が一番美しいと感じるバランス比率のことで、ま、世界的な企業のロゴマークってのは全部この黄金比の理論に則って作られてる。黄金比に近づけば近づくほど、一目見ただけで、何か知らんけども好感持つんですよね。人間の顔も一緒でね、生え際のところから眉下までと、眉下から鼻の下までと、鼻の下と顎の先端までが1対1対1。これが縦の黄金比です。ま、この比率になれば、あるいは近づいていくと、美男美女になるということで、私も途中までメモしてたんですけど、腹立ってきてですね、うるさいわ、みたいなね。もうこの段階でダメじゃないみたいな。まあね、そんなこといろいろ言ってたんですが、ま、このポッドキャストの番組の結論って何かって言ったらね、顔の魅力ってのは顔立ちじゃなくて顔つき、っていう結論ですよ。なんぼ美男美女でもね、ぶすっとしてイライラしていたら、ま、ちょっと遠ざかりたいんじゃないですか。みなさん、あの能でですね、般若っつうのあるじゃないですか。鬼の面。女ですよ。あれ元々美人だったんですが、その美女がね、恨みで怨霊化した時にああいう顔になるということでね。ですからね、あのね、美人ほどね、あの、こわい。

福音は喜びの訪れ

ところがね、どんなお顔立ちの方であってもですよ、笑顔ってやっぱりね、最強でね、顔つきの部分は自分で直すことができるってことで、ある大学で就職試験の時に笑顔でってことで、で笑顔の基本てのは、口角を上げるってことだそうです。口角ってのは口の両側にある筋肉なんですが、ところがね、普段から笑いを忘れている人っていうかほほ笑みを忘れている人っていうのはね、笑い方わからないんですって。みなさんには関係ない。この顔面の筋肉が口角を上げるっていうことを学習してないので、口角上げなさいって言ってもね、上げ方わかんない。でそこの大学の学生課がね、面接試験のために口角の上げ方という、あのね「ウイスキー大好き—」ってのをね、三回ほど言うと学習するそうですよ。で、ある学生がですね、就活に向かっているときにバスでね「ウイスキー大好きー、ウイスキー大好きー」ってね、ちょっとでも明るい朗らかな女性であるという印象づけようおもてたらね、降りる時にどっかの知らんおばさんがこの、メモ用紙渡してね、開いてみたらね、アルコール依存症の、この専門病院の電話番号でね。あの、たしかに、この口角上げる、すぐくっと上がる人っていいと思いますけどね。 喜びの理由があったら自然に上がるんじゃないですか。これから大好きな人に会うとか、今晩お誕生日会が待ってるとか、明日ワクワクするようなプランがあってとか、そういうことが自分の中にあると、こう隠そう隠そうとしてても自然にグーとですね、上がるんじゃないですか。
今日は福音集会ですが、この福音という言葉、これは喜びの訪れです。喜びの理由です。理由もないのに喜べって、それは苦痛ですよ。だけど喜ぶのに十分な理由があって、それを思い返してるときにふつうの結果として、あーうれしいなと、口角が上がっていくんですよね。そこで今日私は福音、喜びの訪れ、神さまが私たちにどうしても届けたいと願ってらっしゃるイエス・キリストの福音をみなさまにお伝えしたいと思います。
まず、テキストですね。ヨハネ第一の手紙の4章の9節。特にこの9節と10節、キリストの十字架の場面のことを思い返しながらヨハネが語ったんですね。こう書いています。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

作者がいるかいないのか

ところで私は個人のユーチューブチャンネルを持ってるんですが、昨年コメントの中に「孫にプレゼントあげたいんだけど、3歳と6歳です」というのがあったんですよね。『きいろとピンク』という絵本を紹介しました。今から20年くらい前に出版された本なんですけれども、この『きいろとピンク』ってどんな話かって言いますとね、あの古新聞の上にこの黄色の人形とピンク色の人形が並んでいるんですけどね、この黄色の人形が突然話かけるんですね、ピンクに。「われわれはどこから来たんだろう」つってね。ほんならピンクが「そんなん、作者が作ったんに決まってるやん」と言うと「おまえそれ見たんか。作者がおまえ作ってる現場、覚えてるか。見たか」と言いまして彼は「まあな、俺は偶然だと思う。250万年くらい時間あったら、いろんな偶然が重なると思わないか。例えば、木に落雷があって大きな枝が落ちてくる。落ちながら裂ける。裂けながら転がる。転がりながら研磨されてどんどん、どんどん、すべすべになる」なるかな、と。「さらにそれが250万年も風雪に耐えてるうちに、えー不思議な形になって手足になり、組み合わさり、そしてキツツキが目と鼻を掘り起こしてくれたので俺たちの姿になったんだ」みたいなね。で「ちょっとそれ、偶然重なり過ぎてへん」と、ピンクが言うんです。「そもそもキツツキがついたくらいで目とか鼻とかね、なんで見たり聞いたりできるんや」と。ま、この人形ね、見たり聞いたりできるんです。この人形は。「キツツキはいろんな木つついてるけど、その木に目できるか、でけへんやろ」と。「なんでキツツキがつついたくらいで私たちの目は見たり、私たちの耳は聞こえたりできるんだい」ていうふうに言ったら「目というのは見えるから目と言うんだ」と「耳というのは聞こえるから耳と言うんだ」と。「おまえの質問はナンセンスだ」と。おまえの方がよっぽどナンセンスなんですけどね。えーそれでね押していくんですよね。「じゃあ、君のからだ、どうして黄色なんだよ」「それはな、俺が人形の姿なった時に転がって行くなかで、たまたま落ちることになってる岩のところに黄色のペンキの缶があって、それにぶつかってバーン流れてね、それでもみくちゃなってる間に黄色になった」と。「じゃあ、なんで私のピンクなの」「おまえのはピンク色のペンキの缶がひっくり返ったんや」みたいなね、こと言って。とにかく偶然、偶然で全部説明しようとして、どんなに説得しても、黄色は聞き入れなかった。その時にですね、音がするんです。え、実はですね、一人の人間がやってきてこの二つの人形をこう持ち上げてね、ペンキの乾き具合を見て、そしてお店に去って行ったって話ですよ。ここで突然終わるんでね。何を言いたいねん、ということなるんですけど。作者がいるのかいないのかっていうことは、作者が姿を現した時点で議論は止まるということを言いたいんです。

神が地上に来られた

確かに私たちは今、神を見ることはできない。手で触れることはできない。でも神がおられるのか、おられないのか、一度実は、神は人となってこの世界に姿を現してくださったんだと言うんですよね。それを思い起こす一つの機会がクリスマスでした。今日、もうちょっと深くそこを掘り下げたいと思うのです。ここで「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。」と書いてます。神はひとり子の神をこの世界に送ってくださった。遣わしてくださった。なんで遣わしてくださったのか。私たちにいのちを得させるためだというふうに書いてあるんです。いや、生きてますけどと言うかもしれませんが、私たちが持ってるいのちっていうのは、死につつあるいのちであって、永遠のいのちじゃありませんよね。永遠に生きることができる人ってだれもいてないんです。で、そういうふうに言いますとですね「じゃあ、なんで神さまは元々、人を死ぬものとして造ったんだろう。死なないものとして造ってくれたらいいのに。どうして人間を死ぬものとしてお造りになったんだろう」みなさん、神は人間を死ぬものとして造りませんでした。死というものを神はお造りにならなかったんですね。ただ、私たちの最初の先祖、アダムとエバが神に反逆して罪を犯した結果、罪という猛毒が入りました。私たちに完全な罪の赦しを提供するために、天から人となって、死ぬために来てくださった方、それがイエス・キリストという方です。このテーマはですね「新しい希望と祝福への道 イエス・キリスト」なんです。それはイエス・キリストのなかにあります。
ぜひイエス・キリストを信じてクリスチャンになってください。心からお勧めいたします。


使用CDジャケット
Migiwa:この世界を創られた神様は

今日のみことば
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
(1ヨハネ4:9-10)