#1311 新しい希望と祝福の道-罪の赦し

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

はい。皆さま、こんにちは。先日ですね、あの、今執筆してるんですけど完全に行き詰りましてね、気晴らしに本屋さん行こうと思ってね。そしたらね、何か気になってるものに、こう手が行くんですよね。『残念ですが』っていう本だったんです。今、世界の名著と言われている五十冊。百年経とうが二百年経とうが、ずっとベストセラーっていうね、古今東西の五十冊の本、出版社から「残念ですが売れませんので採用しません」というのを五十冊とも受けてるんです。非常に勇気づけられました。「残念ですが」と、どんなに出版社が言おうが、良い本かどうかというのは読者が決めるんです。プロの編集者が何と言おうが、読者が「これいいっ」ていうふうになったらね、ベストセラーになるので、皆さまにかかっております、ひとつよろしくお願いいたします。

救いたくない命

それと同時にね、エッという本がありまして、『救いたくない命』って書いてあるんですよね。「けしからんな」と思って、またこう取り出して見ますと、実はね横浜で外科医やってる現役の医者が、文才あるんですよね、作家でもあるんです。二足のわらじ、外科医やりながら小説家もやってるんですけど、ぱらぱらと見るとですね、二人のスーパー外科医がコンビで、いろんな救急救命のところに運び込まれてくる患者を外科手術していくんですけどね、その救いたくない命、例えばね無差別殺人でいっぱい人を殺してきた人が、末期のがんだということが分かって運び込まれてくるんですけどね、この二人のうちの一人が「こんなん助けても、仕方がないじゃないか。俺はこんな奴救いたくないわ!」って言いながら救うという話です。この本のタイトルはね、『俺たちは神じゃない』って書いてました。「こんなん生かしといたら、むしろ社会にとって迷惑かけんじゃないの」って。だけど患者を前にしたら、医者として義務感でやらざるを得ないからやりますというね、これね、今私が言ったの小説ですよ、作り話。だけどこれ、実際にイスラエルでよくある話ですよ。
今から二年前の十月七日に、ハマスがテロやったでしょ、千三百人以上殺された、むちゃくちゃな殺され方で。今でも百人以上が人質になって、戻ってこないんですけどね。あのハマスの攻撃、テロ計画やったのはヤヒア・シンワルって男なんです。このヤヒア・シンワルって男はイスラエルに協力的だったパレスチナ人の人たちを、片っぱしから殺していった人です。それでイスラエルの警察が彼を逮捕して、終身刑三回受けてるんです。彼は終身刑受けてるときに脱獄二回やろうとするんですけど、二回目の脱獄の途中でものすごい頭痛がしてね、確か脳出血か脳腫瘍か、どっちかです。で、彼は脱獄プランを途中でやめて「頭が痛い!頭が痛い!」言うて、そしてイスラエルの刑務所に行って、刑務所の中の医務官呼んでね、「俺治してくれ」って言うて、脳外科手術で彼助かったんです。この手術をしたドクターの、甥っ子はね、今ガザ地区のハマスのトンネルに捕らえられてるんですよ。あのとき助けなかったら、こんなことになってないんじゃないですか。だけど医者っていうのは、患者として運び込まれた人間に対しては、自分の私心を捨てて、ベストを尽くすという義務を負ってるという、すごい仕事やと思いますね。患者って医者選べますよね、セカンドオピニオンとかいって。でも医者は患者選べないんだというのは、何回も出てくる。この本の中に。それ地で行ってるのが、テロリストたちを癒していくイスラエルのドクターなんですよ。で彼らね、喜んでやってるっていうよりはね、職業倫理に支えられて、ある意味で義務感でやってるんだと思います。

私たちが神を愛したのではなく

だけど聖書見るとね、神は私たちにいのちを得させたいと思ってる。その私たちにいのち得させたいと神が願ってくださってるこの私たちって、どんな人間であるかといいますと、ヨハネ第一の手紙の4章10節にね「私たちが神を愛したのではなく」と書いてあるんです。「私たちが神を愛したのではなく」っていうのはね、はっきり言って神を憎む。神はいらない。いたとしても関係持ちたくない。私は神と無関係に自由に生きていきます。私は神のようになりたい。この木の実を取って食べたら神のようになる。じゃあ食べようっていう。神から離れるってことが聖書の言う罪なんですが。
ところで皆さん、聖書の神っていうのは正義の神ですよ。この正義の神が罪人を愛することできるんだろうか。ある記事を読んで、こういうことかもしれないなと思ったことがあります。

オレオレ詐欺の電話をとった女性

実はね、一人の女性がオレオレ詐欺にかかるんです。最近のオレオレ詐欺っていうのは手が込んでましてね、まず警察名乗るんですよ。その人のいる地区の警察署、「○○署の者です」って言って。「お宅の息子さんが、交通事故起こして、今事故現場に私呼ばれて来てるんですけれども、どうも示談が成立したようです。警察は民事には介入しませんので、ちょっと息子さんと代わりますね」って言って。そしたら震えた声で「お母さんごめんなさい。交通事故やっちゃった。相手に怪我無いんだけど、すごい高価な車で、でも今示談で話しついたから、今すぐ二百万円振り込んでくれない。ごめん、お母さんお願い」ってね。実はね、このお母さんね、数年前に交通事故で息子さん亡くしてるんですって。なので、「交通事故」という単語を聞くと、滅入るんです。時間とともに記憶が薄れて行こうとしているときに、聞きたくもない「交通事故」、しかも自分をだましにかかってるんですよね。まぁ、傷口に塩を塗りこむようなことであるんですけれど、ところがねこのお母さんその犯人の語りかけに「うん、そう、そう、うん、うん」頷きながらね、じっくり話を聞く。なぜかといいますとね、犯人の声が死んだ息子の声そっくりだったそうです。だましにかかてるって分かるんですけれどね、息子が生き返って、嘘なんですけど「お母さん、お母さん」って呼びかけてくれるときにね、むちゃくちゃ懐かしい。少しでもこの子と話しをしていたいと思ってね、「そう、大変だったね」「そう、そう」って、だけどいつまでも付き合ってるわけにはいかない。「実はね、私の息子は、交通事故で亡くなったのよ。でもあなたの声があまりにも息子にそっくりだったから、あなたが嘘でも『お母さん、お母さん』って呼んでくれるから、うれしくなってしまったのよ。でもね、こんな詐欺するのやめてね」そしたらピタッと話し終わってね、しばらくしてから「母さんごめん」って言ってプツッて切れるんです。

神は罪人を愛された

まぁ、やめたかどうかわかりませんよ。わかりませんけれど、心に届いたかもしれませんよね。私が思ったのはこうです。自分が今だまされてるんだ、だましにかかってるんだ、ということが分かっていながら、なぜそんな犯人の話に付き合ったのかというとね、その声を通して、愛しい愛しい息子の面影やイメージや思い出や、そういったものが被さったからじゃないですか。やってることは罪です。だけどその罪を行ってる罪人の犯人の上に、自分にとってかけがえのない、今は手の届かないところに行ってしまった息子の思い出が重なってるからじゃないですか。その息子のふりをしている人物の罪は憎んでいますので、「やめなさいよ」って言うけど、同時にその人のことを愛しいとも思ってるんですよね。もしかしたら、これに近いのかもわかんない。神は私たちのすべての人生をご存じです。裏も表も。表だけではなく、裏ではいろんなことがありました。だけど、そのやったいけないこと、忌まわしいこと、けしからんこと、そういう罪に対する嫌悪感はおありでしょうが、同時にね、まだ罪が入る前に、神と人間との間に持っていたあの麗しい時代のことを神は覚えておられてね、「あなたはこんなことをするために造られたんじゃない。こんな生き方のまま永遠に滅びるために、この世界に生を受けたんじゃない」
聖書はこう言ってるんですよね。私たちが神を愛したのではない。神を拒否し、愛さない。神から離れる。神を否定するその人間を、神は愛さずにはおれない。そしてひとり子を送ってくださった。というふうに語ってるんですね。罪は憎むけれども、罪人を愛して、この罪の状態から私たちを救い出すために、いのちを得させるために、救い主イエス・キリストを遣わしてくださったのだ。と語るのです。罪の赦しを提供するために、天から人となって来てくださった方、それがイエス・キリストという方です。
ぜひイエス・キリストを信じてください。心からお勧めいたします。
 

使用CDジャケット
国分友里恵:赦しがなければ

今日のみことば
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
(1ヨハネ4:9-10)