ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
皆さん、改めましてこんにちは。
私は、今日ゴスペルの真髄をお伝えしたいと思います。すべての人は創造主である神に対して罪人であるということなんです。まあ実はね皆さん、神が最高傑作として人間をお造りになった。神の愛の対象として人をお造りになったというふうに聞くとね、ちょっと解せないことがある。そんなにも神は人間を尊いものとして造ったんだったら、どうして人間ってこんなに出来悪いんですか。自己中心で、わがままで、プライドばっかり高くて、自分のプラスになるんだったら、相手がマイナスになっても平気であるとか。人がいる所にはいつも問題があるじゃないですか。「一人でいたら孤独感。二人でいたら劣等感。三人そろって疎外感」って言いましてね。もうね人間って一人でいても寂しい、二人でいたら比べるから優劣がついて劣等感だし、三人以上なっていったら、なんか集団の中からはみ出して。いや人間関係って難しい。何でこんなに人間は隣人と仲良くすることができないのか。どうして自我を押し通してしまうんだろう…罪が入ったからだと聖書は語るんです。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。と言ってるんです。
作家山本周五郎の少年時代
実は私が大好きな作家が何人かいるんですが、そのうちの一人はね山本周五郎という人なんです。最近の若い方はあんまりお読みにならないと思います。だけどねいい作品書くんですよ。この山本周五郎の作品の登場人物って皆ね辛酸をなめた人たちなんです。辛酸なめて苦労して、そして最後志半ばで倒れていくというね、そういう人が多い。なのに暗くないのよ。いや志半ばで到達できなかったら悔しいんじゃない?全然悔しがってない。と言うかね、何かもっと次元の高いことに準じて、成らなかったらそれはそれでいいんだという、何かね人生のこの知恵の中で、人間関係を超えた何かを指差してるように思わせる作品が多いんですが、彼ね小学校卒業です、学歴。小学校出てからね、東京の銀座にある質屋さんに丁稚奉公に行くんです。その質屋さんのお店の名前が「山本周五郎商店」なんですよ。つまりね自分が丁稚奉公した店の屋号をペンネームにしたというね。
まぁそういう人物なんですけど、僕は彼のことが大好きでね、彼のこと色々と調べてたら、少年時代の思い出について語ってるエッセイ見つけたんです。彼が小学校四年生の時に、国語の宿題で作文が出たんですね。それぞれ自分の思ってること書いたらいいからいうことでね。そしてね、実は彼のクラスにね、非常に出来の良い少年が一人いました。A君といいます。まああんまり言いたくはないけど、皆さん、スクールカーストっていう言葉ご存じですかね。学校の中でね、1軍と2軍と3軍みたいに分かれてる。1軍に属してる子どもたちっていうのはね、格好良くって、人気者で、モテモテで、勉強ができて、スポーツもできて、ギターなんか弾けたりする。僕も弾くんですけど。この1軍というのと、それから、そこまでいかないけれどもその他大勢と、そして底辺みたいな3軍があるみたいなね。なんか地味というか、あんまり友達もいてなくて、地味な感じで。山本少年は3軍だったそうです。A君は1軍なんですよ。ところが何の拍子か、ある時A君と山本君が意気投合して遊んだことがあってね。山本少年はですね、そのことが嬉しくて作文に書くならこれしかないだろうということでね、彼と遊んだあの事この事なんかを作文に書いたら、それが非常に出来栄えが良かったということで、教室に張り出された。その張り出された作文をA君が読んだ時にね「俺、山本と遊んだことなんかないぞー」と言い出したのです。「何で俺が山本と遊ばなあかんのや」と。「この作文は嘘だ」って言ったんです。そうしたら他のクラスのメンバーもね「そうだ、こんな事あるはずないじゃないか。うっそだ!うっそだ!うっそだ!」って言って。そして、少年山本君をみんなで詰め寄っていってね「お前どうしてそんな嘘ついたんだ!」ってことで、まぁどんどんどんどん詰められていった時に「嘘じゃない」だけど頭の中が真っ白になって、どういうふうに言い返していいかよく分かんない。もうどうにも分かんないとなってた時に、担任の先生がね駆けつけてきたんですよ。
そして、その作文をもう一度目を通して、一言こう言ったんですね。「山本、嘘でもこんなにすごく書けるってお前才能あるから、将来小説家になれ」って。まぁね先生はね、励ましたつもりなんですけどね、彼は傷ついたね。とうとう、A君と楽しく遊ぶことができた。それは彼の中で美しい思い出だったんですが、こんなに慕ってるのにみんなに嘘つき呼ばわりされて、先生までもが私の証言よりもA君や他の子どもたちの言うことを聞いて。
創造主から離れることを罪という
私そのエッセイ読んだ時にね、このAちゅう奴ね、けしからん奴ちゃなあと、おい、なんちゅう残酷なことをしたるんやと、こんな慕ってくれてる人をね、公衆の面前で辱めて、もう血も涙もないんかこいつはと思って、なんかイライラっとしたんですが、後年クリスチャンになってね、私も同じことをしていたなということに気がついたのです。
誰に対してそれをしたかと言ったら、神に対してです。私も長い間「神!目に見えないから頼りにならん。神!神に頼るよりも自分が強くなって、自分の実力で切り拓いていく方が英雄的な人生じゃないのか」とか、「神がいても私の人生とは関係ない、関係ない」ということでね。「神は付き合ったことはない。神からいいものもらったことない。関係ない!」っていうふうに、この慕っている少年を一方的に断罪したのと同じように。
実は、創造主なる方は私たちを熱烈に愛してくださってるんですが「いや、私いりませんので結構です」っていうふうに断るのは、あの少年Aのやったこととよく似てるように思うのです。聖書はね、創造主から離れることを罪と言っています。ちょうど植物は根っこからスパンと切ると、生け花としていけると、一週間二週間は青々と茂ってるでしょう。花も綺麗でしょう。でも根っこから切れてるからやがて枯れるんです。私たちは神から離れてても100歳、120歳ぐらいまでは生きれるかもしれません。しかし、いのちのルーツと切れている。神から離れている。だから人は死ぬものとなったとバイブルは語るんですね。人は神とつながる必要があるんです。
創造主の方ではできる限りのこと全部やったけど、罪だらけの人間が創造主に受け入れられるためには、その罪を処分していただく必要があるんですね。その罪の完全処分をキリストはあなたに代わって成し遂げてくださいました。あなたの代わりに十字架にかかり、罪の償いをしてくださったのです。ぜひこのキリストを信じてください。心からお勧めいたします。
(ローマ6:23)