ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて、今年の7月3日、紙幣のデザインが変わります。一万円札は日本資本主義の父渋沢栄一、五千円札は日本女子教育の先駆者津田梅子、千円札は日本近代医学の父北里柴三郎です。このうち渋沢栄一と津田梅子は聖書と深くかかわった人なんですね。
渋沢栄一という方は五百以上に及ぶ日本企業の創設にかかわり、六百以上の教育機関や社会公共事業にかかわったんですが、その中にはクリスチャンの団体が非常に多かったのです。1920年に東京で、世界日曜学校大会というのが開催されたんですが、その大会講演会の副会長として支援したのが渋沢栄一でした。この日曜学校というのは、教会の中で日曜日に子どもたちのために分かりやすい聖書を伝えるプログラムのことなんです。彼自身はクリスチャンではなかったにもかかわらず、どうして世界日曜学校大会に積極的な支援を行ったんでしょう。
渋沢栄一とワナメーカー
渋沢は、この大会の三年前に、アメリカに企業視察旅行に出ていたんですね。その時、全米No.1のデパート王であるワナメーカーに招待され、フィラデルフィアにあるベタニア教会の日曜学校に参加したのです。実は、ワナメーカーという人はこの日曜学校の校長先生でした。彼は67年間にわたって毎週日曜日、子どもたちに分かりやすい聖書の話をすることに取り組んでいたのです。全米に百貨店を展開する彼の日常は、目の回るような忙しさでしたが、日曜日は必ず仕事を休み教会へ行き、そして子どもたちへの聖書教育に力を注いでいたのです。その時渋沢は、ワナメーカーから、子どもたちの前で何か一言話すように頼まれたんですね。すると彼は臆することなく「皆さん、私は孔子の教えである論語を毎日読んでいます。私は儒教もキリスト教も同じだと思います」と語ったのです。
するとワナメーカーは立ち上がり、次のように言ったと伝えられています。「私は儒教に対しても大変リスペクトしています。今、東洋の紳士が、キリスト教も儒教も同じだと言われました。絶対に違います。なぜなら孔子は死んで葬られそのままですが、イエス・キリストは一度死んで墓に葬られましたが、三日目に復活し、墓の中は空っぽになりました。キリストは今も生きている方です。皆さんの隣に、この部屋の中に、そして私の心の中に生きている神です」それを語った時のワナメーカーの目は涙で濡れていたのです。さらにワナメーカーは聖書を掲げて「ここにイエス・キリストのことばがあります。これは生ける神のことばです。教えではなくいのちのことばです。このいのちのことばを私たちはこの聖書の中に読むことができるのです」と叫んだのでした。
ワナメーカーの涙ながらの行動を渋沢はどのように見ていたのでしょう。1917年のフィラデルフィアの新聞、サンデータイムズは、渋沢がアメリカを離れる時に催された送別会の時の様子を伝えています。記者から「アメリカ滞在中、最も印象に残っていることは何ですか」と聞かれ、「はい、フィラデルフィアのあの日曜学校です。ワナメーカー氏は熱くキリストを弁論で証明しました。あの時、聖書を掲げて子どもたちに呼びかけた時、キリストを慕うあまり、その頬から熱い涙が流れ落ちるのを私が見た時です」さて、それから三年後、ワナメーカー氏は、世界日曜学校協会の総裁に就任します。その年に日本で世界日曜学校大会が開かれたのです。渋沢はそこで全面協力したのは、三年前にワナメーカーから聞いたキリストの復活と、今も生きているキリストへの熱情の余韻が彼の中に残っていたからかもしれないんですね。
さて、キリスト信仰の土台は、キリストの復活という歴史的事実の上にあるのです。十字架から三日目の朝、空の墓を見た女性の弟子たちの前に、よみがえったキリストが現れたのです。聖書にこう書いてあります。
すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。
よみがえったキリストが女性の弟子たちにかけた言葉を日本語の聖書では「おはよう」と訳していますが、これは原文のギリシャ語では「カイレテ」という言葉なのです。そしてこの言葉は「喜びなさい」という意味があるんですね。キリストの復活のゆえに喜びなさいと声をかけられたのはいったいなぜなんでしょう。三つご紹介しましょう。
キリストが神の子である証明
第一に、十字架の上で処刑されたイエス・キリストは、人々が言うような犯罪人ではなく、神の子であることが復活によって証明されたからです。キリストの死刑判決の理由は、自分を神と等しくしたということ、これを冒瀆というレッテルを貼られて処刑されてしまったんです。しかし、イエスは本当にご自分が言われたとおりに神の御子であることが復活によって証明されたのです。
罪の赦しの確実性の立証
第二に、キリストによる罪の赦しが確実なものであることが立証されたからです。キリストは、私たち人間の罪の身代わりになって十字架にかかり、神のさばきを受けてくださいました。しかし、それが本当に神に受け入れられたものなのか、どうやって確かめることができるでしょう。神がキリストの身代わりの死を認めているということをどのようにして確かめることができるのでしょう。復活によってです。普通は死んだら生き返りません。それっきりです。しかし、イエスの死は普通の死ではなく、贖いの死であったことを証するため、普通なら起こらないことを神が起こされたのです。それが死後三日目の復活であったのです。
キリストが100%信頼できる証明
第三に、キリストのした約束は、100%信用できることの証明となりました。と言うのは、キリストは十字架で亡くなられる前から何度も何度も「私は死んだあと三日目によみがえって弟子たちに姿を現す」ということを約束しておられたからです。私たちは約束したことを守るためには生きていることが前提ですよね。死んでしまったら約束を果たせません。しかし、キリストは死んで三日目に姿を現すと約束されたのです。どんな人間にも果たせない約束です。しかし、キリストはその言われたとおりに約束を果たされたのです。つまりキリストがした約束は、どんなに不可能に見えることでも必ず実現するということを復活によって証明なさったというのです。そのキリストは別の時にこう言われたんです。「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」ぜひあなたも死んでよみがえられた生けるキリストを信じて、そして永遠のいのちをいただいてください。心からお勧めいたします。
(マタイ28:9)