ごきげんいかがですか。那須清志です。
先日、アメリカで車を運転する機会がありました。左ハンドルで右側通行ですから、日本と反対です。方向指示器を出そうとしたらワイパーが動き出したり、サイドブレーキを引こうとしたら手元に何もなかったりと、最初は戸惑いました。そんななかでも、信号の赤は止まれ、青は進め、これは世界共通です。この信号機の色でこんなことを思ったことはないでしょうか。進めを示す青色、あの色をどう見ても青に見えないなと。そういえば緑は進めと言う人もいますし、英語で進めはGreen lightで緑色ですよね。実は明治時代に信号機が導入されたとき、今私たちが緑色に見えるあの色を、青色と表現しても何の違和感もなかったようです。
その昔、緑色という表現はなく、皆青いと言っていたんです。そういえば緑っぽいりんごを青りんごと言いますね。また青々した緑など不思議な言い方の理由もわかってきます。日本ではその後、緑色という表現が定着しても信号については「青は進め」という表現を変えようとしませんでした。かえって信号の色そのものを変えたんです。色の表現にも世界標準があるのですが、ギリギリ緑色の範囲に入る青色に近い色に変えました。というわけで、外国に比べると日本の青信号は青っぽい緑なのです。言葉の使い方って難しいですね。
聖書の神と日本人にとっての神
聖書の神についても同じようなことが言えます。日本人にとって神とは人によって感じ方がかなり違います。どちらかいえば、「触らぬ神に祟りなし」というように変に関わると厄介なものとか、物でも人でも神になると考えている人が多いようです。聖書が語る創造主、この天地万物を造られ、私たちを造られた神は、天という表現の方が理解しやすいのかもしれません。いずれにしても聖書の神について考えるとき、神という言葉を使い続けるのであれば、神は祟るような方ではない、私たちを造られた正義と愛の神であると心の中でしっかりイメージしていくことが大切でしょう。神の代わりに創造主と呼びかけてもいいですし、神が人の姿をとったと言われるイエス・キリストと呼びかけてもいいかもしれません。聖書の神について次のように紹介されています。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。」ここで言ういのちとは、神とともに永遠に生きるいのちのことです。神はプレゼントとしてあなたに永遠のいのちを与えたいと願っておられます。
イエスを通して示される神の愛
先月、知人のMさんが亡くなり葬儀に参列しました。彼は信仰を持って6年ほどでしたが、死を前にしても永遠のいのちの希望を抱く人の平安を見事に示してくれました。お世話になる葬儀屋と事前に打ち合わせをし、自分の葬儀の流れを決めていたというのです。息子さんが式のなかで、父との思い出を話していたのが印象的でした。お父さんは愛情を言葉でズバズバ表す人ではなかったようですが、自分たちを愛していることがよく分かったそうです。発売された新刊を本棚の見えるところに置いておき、それを見つけて喜ぶ姿を見て喜ぶような感じだったと言いますからユニークですね。
では、神はどのように愛をあらわされたでしょう。ひとり子イエスを通じてです。ひとり子の神と言われたイエスをこの地上に送り、人間の罪の身代わりとして十字架の上でイエスをさばかれました。聖書の神は人間の罪や悪をうやむやにする方ではありません。完全な義、完全な聖さを持つ方です。あなたの不完全さ、罪の全てはイエスのうえにのせられて、あなたの代わりにさばかれ処分されたのです。人は誰でも自分の弱さを認め、神の前に不完全さを告白するならば、罪の赦しは有効となり神の前に永遠のいのちを得ることができるようになりました。神はイエスを通して与えられるいのちが本物であることを示すために、イエスを死後三日目によみがえらせました。天に帰られましたが、今もイエスは生きておられて、天から私たちを守り、導いてくださいます。イエスを救い主として受け入れ、イエスに信頼して生きていくとき、さらに神の愛や神の思いを知っていくことになります。
神は働いておられる
北朝鮮から脱出して現在日本に住み、YouTuberとして北朝鮮の情報などを流しているキム・ヨセフという人がいます。彼は北朝鮮に生まれて10歳の時に母と姉と死別、父と離ればなれとなり弟と路上生活を始めました。その後彼だけ祖父母の家に身を寄せましたが、18歳のとき脱北を試みます。しかし失敗し、大変な拷問を受けます。−26度の極寒の地で過酷な尋問を受けたのです。祖父母の家に戻されますが、23歳の時に再度脱北します。中国、ベトナム、カンボジアを経て、韓国への亡命は成功しました。激動の歩みの中で彼は聖書の神に出会います。超自然的な存在といえば金日成で、神と同じくらいの能力があると教えられてきましたが、彼の世界観は大きく変えられたのです。本物の神の赦しと愛に出会ったときに人は変えられます。キムさんはイエスの「敵を愛し自分を迫害する者のために祈りなさい」ということばによって、心に渦巻く憎しみから逃れることができました。またこれまでの自分の身の上に起こったことに対して、違った見方をすることができるようになりました。彼はその著のなかで、「なぜ自分だけあのような過酷な経験をしなければならなかったのかと問うたとき、聖書を重ね合わせるとパズルが解けるかのように理解できるのだ」と書き、また「なぜ一度目は失敗したのかを悟った。自分にはまだその準備ができていなかったから、神が敢えて救い出さなかったのだ。神がもう一度苦労させた理由があったのだ」と書いています。自分の気づかないところで神が働いておられた。また今も働いておられるということをキムさんは知ったのです。
あなたのこれまでの人生にも、生きておられる神は働いておられました。そして今も働いておられます。それに気づくようになればどれほど素晴らしいことでしょう。あなたと神との障壁となっていた罪の問題は神が解決されて、いまあなたとともに歩むことを神は願っておられます。その歩みは永遠に続くものです。あなたも救い主イエスを信じ、この祝福の人生に入られることを心からお勧めいたします。
(1ヨハネ4:9)