ごきげんいかがですか、尼川匡です。
さて、私は今年の5月で66歳になります。以前より気力も体力も随分落ち、耳も遠くなり、目も見づらくなりました。持っていたものが少しずつ失われていくんですね。寂しさを感じます。今日は「自分の弱さを認める勇気」というテーマでお話しをします。
聖書をお読みしたいと思います。
しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
このところから三つのことを考えます。
神の恵みは十分である
一つ目、神の恵みは十分であること。二つ目、神はあなたの弱さをおおわれること。三つ目、弱さを認め受け入れる必要 です。
それでは一つ目、神の恵みは十分であるということです。以前、田原米子さんの『生きるってすばらしい』という本を読みました。彼女は16歳のとき突然母を病気で失い、大きなショックを受けるんです。人はなぜ生き、なぜ死ぬのか。多感な少女はいろいろな人に聞きますが、誰一人彼女の求める答えをくれる人はいませんでした。絶望した彼女は電車に飛び込み、自殺を図ります。両足と左手を失い、右手の指3本を残し、一命を取り留めました。彼女を待っていたのは、以前よりもさらに大きな絶望だったんです。
この彼女のもとにキリスト宣教師が通ってくるようになりました。しかし聞く耳は持ちません。ある時、宣教師が置いていったテープから流れてきた聖書のメッセージが、彼女の心に深く突き刺さったんです。彼女は信仰を持ち、新しい人生を歩み始めました。本の中に印象的な一節があります。「私は指が3本しかないと嘆いていました。しかし、今私は指が3本もあると思い、嬉しくなるのです」状況は変わっていません。しかし与えられている恵みに感謝するように変えられたんですね。
さて私たちは、自分が持っているもの、与えられているものに目を留めず、持っていないもの、失ったものに目を留める傾向があります。私は生まれた時からほとんど左目が見えないんです。ですから遠近感がつかめません。また読字障害の傾向があり、本を読むのがとっても遅いんです。論理的に物事を考えるのが苦手です。自分にないもの、できないことが多くあります。しかし、与えられていること、持っていることもたくさんあるんですね。
自分が持っていないことに目を留めると失望してしまいます。ですが、与えられているものに目を向ける時、感謝が溢れるんです。神の恵みは私に十分である。私たちは自分が与えられているものに目を向け、それがどれほど素晴らしいものなのか、いま一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。聖書はそれは神のあなたへの恵みであり、プレゼントだと言うんですね。
神はあなたの弱さをおおわれる
二つ目のことを考えます。神はあなたの弱さをおおわれること。私たちは誰もが弱さを持っています。
弱さは多くの場合、自分の力ではどうすることもできません。そしてこの世界では弱さを克服し、乗り越えよ、強くなれ、と言われるんです。そしてそれができないとだめなんだという評価を受けてしまいます。これは苦しいことですよね。
神は人間を創造された時、一人一人を完全な存在として創造されたのではありません。弱さや足りなさを与えられたんです。なぜでしょうか。それは人間が互いに助け合い、支え合うものとなるためでした。そして神は、人はひとりでいるのは良くないと言われ、人間同士が助け合える関係を築けるようにしてくださったんですね。
パウロはキリストの力がおおうために自分の弱さを誇りましょうと言いました。彼が弱さを誇ることができたのは、キリストがその弱さをおおってくださることを知っていたからです。自分でなんとかしなければならないなら、大変です。
ではキリストはどのようにして私たちの弱さをおおってくださるんでしょうか。もちろん直接神がおおってくださることもあるでしょう。しかし多くの場合、その人と関係を持っている人たちが、神の愛に促されて弱さをおおうために働いてくれるのです。そのため地上に置かれているのが神の教会なんですね。クリスチャンなんです。ですから、教会とは強い人が集まる場所ではないんです。弱い人たちが集められ、それぞれ自分の持っていること、できることを持ち寄って、互いに支え合い、助け合う場所だと言うことができるんです。
弱さを受け入れる必要
三つ目、弱さを認め受け入れる必要です。私たちが生きている世界は弱さを受け入れにくい世界です。
ですから、どうしても自分を強く見せ、弱さを隠そうとします。そして疲れ果てるんですね。私たちの弱さは神の愛でおおわれる必要があるんです。そして教会の中でおおわれ、励まされなければならないんです。出来ないことはできないんです。ですから助け合うことが必要になるんですね。しかし、その弱さを他の人に認めてもらうためには、まず自分自身が自分の弱さを素直に認めることが先決なんです。
あなたはどうでしょうか。自分の弱さを素直に認めておられるでしょうか。ごまかそうと繕ってはいないでしょうか。私たちにはこの弱さを認める勇気がいるんです。そのためには私自身、自分が神の素晴らしい作品であるということを知る必要があるんですね。
しかし多くの人は自分が神の作品であり、高価で尊い存在であるということを聞いたこともないし、信じてもいないんです。ですからこの世の評価や価値を信じ込み、疲れるんですね。神が大切な存在としてこの世界に生み出してくださったことがわからないからです。それなら弱さは欠けにしか過ぎません。
しかし神は私たちの弱さをだめだと言われないんです。むしろその部分をおおいたいと願われているんです。神がどれほどあなたを愛しているか知ってほしいんですね。教会の中であなたの弱さをおおってくれるクリスチャンと出会ってほしいんです。弱さとは、神が手を触れ、おおいたい、大切なあなたの部分なんです。あなたと神を結びつけるものなんですね。
創造主なる神を信じ、この方の前でありのままの自分の弱さを受け入れる勇気を持ってください。心からおすすめしたいと思います。
(2コリ12:9)