ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて、ある雑誌で90歳のおばあちゃんが人生で一番後悔していることを語っておられました。それは60歳の時、バイオリンをやりたいと思ったのに、始めるには遅すぎると思ってやらなかったことだって言うんですね。あの時、始めていたら30年も演奏できたのにという訳です。
良いことを始めるのに遅すぎるということはありません。心が動いた時こそベストタイミングです。そして、最も良いことは神が用意されたキリストを受け入れることです。そこで、今日はキリストの到来を覚えるクリスマスの意味について考えてみましょう。聖書に羊飼いたちが天使からキリストの誕生を告げ知らされるという場面が出てきます。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
ここから3つのポイントで解説致しましょう。
「主キリスト」の意味
第1に、主キリストの意味です。主とは神のことなんですね。そして、キリストとは救い主のことです。つまり、イエスは100%創造主なる方、神である方が100%人となった救い主だと語っているのです。なぜ神が人になる必要があったのでしょう。それは、私たちが人だからです。
ところで、犬は飼い主のことをどの程度理解しているんでしょう。主人の癖、主人の匂い、主人の足音、主人の声、主人の機嫌、良く知ってると思います。しかし、あなたという人格、主人の心の動きの全てを完全に分かっているということはないでしょう。
私はよく散歩中の飼い主と犬を見かけることがあるんです。時々、犬が糞をしている場面に出くわすことがあるんですね。飼い主はその時どうしますか?マナーとしてその糞を拾い上げ袋に入れて持ち帰るんですね。これを犬の立場で見たらどうでしょう。「いや、うちの主人変わってるなぁ、なんで僕のうんちなんか拾い集めるんだろう。こんなのを収集して何になるんだろう」たぶん犬は糞を拾い上げていることは分かっても、なぜ拾い上げているのかについては分からないと思います。どんなに仲良しの飼い主とペット犬でも、人間と犬の間には越え難い壁があるのです。もし犬に飼い主の考えを伝えようとするなら、飼い主が犬になってしまえば分かるかもしれませんね。
ところで、神と人との違いは、人と犬との違いより遥かに大きいのです。神がいかなる思いで今あなたをご覧になっておられるのか。それは、神自らが人となることでより深く伝えることができるんですね。
キリストの誕生は預言されていた
第2に、この方はダビデの町で生まれたと告げし出されたことです。キリストはダビデの町で誕生することが聖書の預言によって定まっていました。
ところで、今年、イギリスのエリザベス女王が亡くなられました。在位70年という大記録です。その時、長年女王陛下のボディガードを務めていたグリフィンという人がこんなエピソードを披露していました。実は、女王陛下は毎年夏になるとスコットランドのアバディーンシャーというところにあるバルモラル城という別荘で過ごされるんです。それは誰もが知っていることです。
ある夏の日、女王陛下に誘われてピクニックに出かけたのです。すると、たまたま二人のアメリカ人の旅行者と出くわしました。女王陛下はいつものように「ハロー(こんにちは)」って挨拶されたんです。アメリカ人旅行者も返事を返し、やがて暫く語らいの時となりました。彼らは聞きました。「この近くに住んでいらっしゃるんですか?」「いいえ、私は日頃はロンドンなんですが、夏の間だけこの山の反対側にある別荘にいるんですよ」「ここに来るようになってどれぐらいになりますか?」「幼い頃からですから80年以上になりますね」「80年も来られてるんだったら、もしかして女王陛下と会ったことがあるんじゃないですか?」「いいえ、私はありません。でも、このグリフィンさんはよく彼女と会ってるんですよ」すると二人の関心は女王陛下本人からグリフィン氏に向いたのです。そして、「どんな方なんですか?」と質問攻めをしたんですね。そして、挙げ句の果てに女王陛下にカメラを渡して、「グリフィンさんと一緒に写真を撮ってください」と頼んだというのです。
女王陛下本人を目の前にしながら、それが分からなかったんですね。しかし、なぜ「女王陛下に会ったことがありますか?」と質問を切り出したのでしょう。その場所は陛下の別荘がある場所であったからです。場所が女王陛下との接点となったのです。
同じようにキリストには特定の接点となる場所がありました。それがダビデの町なのです。キリスト誕生の700年も前から、キリストはダビデの町ベツレヘムで生まれるということが旧約聖書の預言で定まっていたからです。そして、イエス・キリストはその条件を満たして、『今日ダビデの町で救い主としてお生まれになったのだ』と告げられたんですね。
あなたのための救い主
第3に、この方が来られた一番重要な目的、それはあなたのための救い主となるということでした。
ある学校で一人の講師が講演をしたのです。「皆さん、ここに水の入ったコップがあります」その瞬間、聞いていた学生の一人は思いました。“あぁ、この話知ってる。このコップの中の水が半分しかないと思うか、半分もあると思うか、そのような自分の心次第で、人生は豊かにもなるし、貧しくもなるというあの例のやつだ” ところが講師はそれを見透かすようにこう言ったんです。「このコップの水の量が多いか、少ないか、それはそれぞれの見方によるものですが、コップをずっと持ち続けるのはどちらにしてもキツイです。たとえ今は少ない量でも、ずっと持ち続けるなら疲れ果ててしまいます。ではどうすれば良いでしょう。コップを置ける場所を持つことが大切なのです」
悩みも同じです。自分一人でずっと背負い続けていると、小さな悩みがどんどんどんどん大きくなっていきます。そして、悩みでとうとう押し潰されてしまうかもしれません。私たちは誰もが悩みを置く場所が必要なのです。
では悩みを置く場所ってどこなんでしょう。人間としてどうにもならない罪と死の苦悩の悩み、このような大きな悩みを委ねるような場所、手放せるような場所ってあるんでしょうか、あります。キリストがそうなのです。キリストは私たちの罪の重み、死の重み、虚無の重み、心配事の重み、人生そのものの重荷をあなたの代わりに背負ってくださる方です。そして罪の重荷をご自分の十字架の死で粉砕した上で、よみがえってくださった方なのです。
どうぞあなたもこのキリストを信じて永遠のいのちをいただいてください。心からお勧めいたします。
(ルカ2:11)