ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて、実業家、作家、投資家、タレントといういくつもの顔を持つホリエモンこと、堀江貴文さんは、かつて証券取引法違反で1年9ヵ月の間、長野刑務所に服役されていました。彼はその時の経験をネット上に詳細に公開されているんですね。刑務所にいても良いこともあったっていうんです。健康体になったっていうんですね。ま、実はその1年9ヶ月の間に約30キロ体重が落ち、別人のような顔つきになったそうです。
しかしもちろん辛いことのほうがたくさんあるんです。長野の冬は厳しいんですね。部屋の中は暖房がないので、靴下は履いたままお布団に入って潜り込んでも、寒くて寒くてたまらなかったそうです。しかし彼を本当に悩ませたのは、もっと本質的なことだというんです。それは死について向き合うことだったというのです。
堀江さんは少年時代、とにかく死んだらどうなるのか、死が怖くて怖くてたまらなかったそうです。しかし大人になると、やることが多すぎて、それを考えずにすんでいました。ところが刑務所に入ると、朝6時起床、夜9時半就寝です。大の大人が9時半に寝るっていうのは、彼にとってはあり得ないことだったのです。布団に入っても初めの1、2時間は眠りにつくことができません。それで最初のうちは今までのことなんかを思い返していたそうですが、しかし何も考えることがなくなってくると、子どもの頃に封印していた、あの死の恐怖が沸き起こってくるというのです。
この問題の大変さは考えても解決がないということです。しかし、人が考えによって解決できないこの大問題を、キリストは自らの行動によって、解決してくださったと聖書は語るのです。聖書に次のように書いてあります。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。
ここから、三つのポイントでお話いたしましょう。
人は最後は死に握られている
第一に、人は自分で変えることができない定めを背負っているということです。その定めとは、死ぬこと、死後に自分の罪の責任を負って、さばきにあうということです。
今から百十年ほど前、スウェーデンにオラボ・オラブソンという人がいました。彼は非常に貧しく、最低限の生活をしていました。好きなこと何一つできない彼はとうとう、スウェーデン最大の医学研究機関、カロリンスカ研究所に自分の身体の所有権を売り渡してしまうのです。
それは1910年のことです。ところがその次の年に思いがけないことが起こります。彼自身も知らなかった遠い親戚が亡くなり、身寄りのなかったその親戚の人の遺産をまるごと彼が相続することになったんです。つまり1年前までは最低限の生活だったのですが、一夜にして超大金持ちになったんですね。それで彼は資産の一部を使って、研究所から自分の身体を買い戻そうとするのです。
ところが研究所は、拒否しました。さらに研究所は彼の所有権が変更できないようにする手続きを裁判所に申し立て、法的にも彼が手も足も出ないような状態にしたのです。そのうえ、オラブソンに賠償請求をしたのです。それは彼が研究所の許可を取らずに、虫歯を2本抜いたというのが理由です。もはや自分のものでなくなった身体をなぜ勝手に治療したのか、あなたは他人の所有物を勝手に改造したのだと訴えられたのです。オラブソンはこうして、生きている限りは、どこに行くのか、何を食べるのか、自由なんですが、身体に関する限り一切の権利がありません。彼の最後は研究所に握られています。お墓に入ることも彼には許されていません。彼は研究材料として、血液も細胞も何もかも利用されることが定まっていたのです。
私たちも生きている間は自由に気ままに、どこで何をしようが勝手なんですが、しかし最後は死に握られていますね。誰一人例外はありません。どんなに抵抗しても無駄な努力です。なんと痛ましいことでしょう。
キリストの十字架が罪を取り除く唯一の手段
しかし、第二のポイント。キリストが死の原因を取り除くためにこの世界に来てくださったのです。
ところで、いわゆるヒーローと言われる存在は勧善懲悪ですよね。悪い奴らをなぎ倒して勝利し、そうして意気揚々と引き揚げていくものです。しかし聖書の提示する真の人類のヒーロー、主人公たるキリストはそれとはまったく違っていました。この世のありとあらゆる苦しみ、痛み、悲しみ、困難をその身をもって経験なさいました。人々から苦しめられ、のけ者にされ、さげすまれた苦難のしもべとなられたのです。
キリストが受けられた苦難の中で最大のものは、私たちの罪を背負って、十字架の上でさばきを引き受けるということでした。誰からさばかれたんでしょう。父なる神に打たれ、罰せられ、苦しめられ、死なれたのです。全く罪のない方でした。どうしてこんな不公平なことを神はなさったんでしょう。この方法だけが、私たちの罪を取り除く唯一の手段であったからです。「キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げられた」とは、その意味なのです。
キリストは再び来られる
第三番目のポイント。キリストは十字架で死なれただけではなく、三日目に復活なさいました。そしてその後、オリーブという山から天に昇って行かれたのです。しかし天に行ったきりではなく、再び来られる、と聖書は約束しているのです。これを「携挙」と言います。
「携挙」のケイは携帯電話のケイで「携える」という字ですね。携えるというのは「手に持って移動する」という意味があるんです。そして「携挙」のキョは「選挙」のキョです。この挙という文字の意味は「下のものを上に移動する」という意味があるんですね。すなわち「携挙」とは「地上にいてるクリスチャンたちをキリストが手に取って、天という上の世界に引っ張り上げること」なのです。
この携挙が起こると、クリスチャンたちはすべて天に上げられ、地上にはクリスチャンでない人たちだけが残されます。地上にクリスチャンが一人もいなくなる日がやがてやってきます。そしてこの携挙が起こると、すでに死んだクリスチャンたちが先によみがえり、続けて地上で生きているクリスチャンたちも一緒に天に上げられて、空中で主イエス・キリストと会うことになります。
これらのことは一瞬で起こることなので、その瞬間に気づく人は、誰もいません。何が何だかわからないうちに、世界の億単位の人間、クリスチャンたちだけが姿を消すというのです。そんなこと一体誰が言ってるんでしょうって思いませんか。聖書が言ってるんです。
「キリストは、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」と先ほど書いてあったからです。携挙に与るかどうかの基準は、たった一つだけです。キリストを自分の救い主として信じて救われているかどうか、これだけです。
どうぞあなたもこの携挙に与ってください。そして死を恐れずに、颯爽と生きる人生の中に、どうぞお入りください。心からお勧めします。
キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。
(へブル9:27-28)