ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
今から20年ほど前、アメリカのスタンリー・キューブリックという監督が亡くなられました。映画監督です。20世紀を代表する天才的な監督で、映画ファンならその名を知らない人はほとんどいない超有名人です。
しかしながら彼の姿かたちを知る人は、生前ほとんどいなかったのでした。と言うのは、ほぼほぼ引きこもり状態の生活をしていたからです。
ところで、ある時からこの監督のところに身に覚えのない手紙が届くようになったのです。しかもその手紙の内容は辛辣で、「貸した金はどうした!」とか「映画に出してやるという約束はどうなってるんだ!」とか、とにかく彼の不誠実をなじるようなものばかりだったのです。
たまりかねた彼が調べてみると、キューブリックの名を名乗った別人が、彼の名前を利用して、方々で詐欺行為を働いていたのでした。犯人は捕まったのですが、彼とは似ても似つかぬ中年男だったのです。それなのに多くの人が騙されたのは、キューブリックの本当の姿を見たことがなかったからです。キューブリックにとっては実に迷惑な話だったんですね。
神のイメージ
ところで、これと同じことが神についても言えると思うのです。というのは誰も神の姿を見たことがないからです。そこで人間は、それぞれに自分が勝手にイメージする神をでっちあげ、「神は罰をあてる存在だ!」とか、「何をやってもニコニコ笑っているひげ爺さんみたいな存在だ!」とか、「たくさんお布施を持って行ったら、ご利益を渡す欲張りな存在だ!」とか考えたりするのです。
またあるいは、そんなものはもともと存在しないのだという人までも出てくる始末です。最初にお話ししたキューブリック詐欺事件は、キューブリック本人が、公の場に姿を現すことで解決しました。本物の登場によって偽物が退けられていったからです。
それと同じように、人間が勝手に作り上げた神のイメージは、本物の神の登場によって覆されるのです。この真の神なのに、人としてこの世に姿を現し、神の本質を明らかにしてくださった方こそは、イエス・キリストという方なのです。聖書の中にキリストの自己紹介が語られています。
人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
今日はここから三つのポイントでメッセージをお届けいたします。
キリストは仕えるために来られた
第一に、キリストは人に仕えるために来られました。それが本物の神を示すことになるからです。と言うのは、人間をお造りになられた神は、人間に仕える神であるからです。
人が世話をしないと困るような神ではありません。創造主は人間に地球を与え、空気を与え、水を与え、食物を与え、太陽を与え、生きていくのに必要なものを一切無料で与えておられる方です。そして、あなたが今日まで生きるのに必要なすべてを備えて、生かして来られた方ですね。
それはすごいことだと思うのです。と言うのは、ほとんどの人は創造主に生かされていながら神に感謝しないし、神などいないと言っているからです。
あなたはいかがですか。一生懸命親切の限りを尽くしてる人が、たった一度もありがとうと言わず平然としていたら、親切であることをやめたくなりませんか。あなたのことを無視し続ける人のために、あなたは真心を尽くして仕え続けることがお出来になりますか。とても難しいことですね。ところが神はその難しいはずのことをずーっと続けてこられた方なのです。
キリストは罪の代価を支払われた
第二に、キリストはあなたの罪の罰をあなたに代わって支払ってくださった贖い主である方なのです。
実は先日私は、クレジットカードの明細を見てびっくりしたんですね。使った覚えがない利用額が請求されていたからです。しかも、非常に高額な金額なのです。十数回にわたって使われていたのですが、初めは数百円、やがて数千円、そして万単位の買い物に膨れ上がっていったのです。私が気付いていないとみると、どんどん厚かましくなっていって高額な買い物をしているようなのです。
実に腹立たしいことです。自分は欲望を満たして、そのつけを全く知らないわたしに回してるんですから頭に来ました。すぐに手を打ったのは言うまでもありません。そんな泥棒に私は一円も払ってやるつもりはないし、できることなら、どうにかしてこいつを捕まえることはできないかとついつい考えてしまうのです。
ところが、キリストは、自分勝手に犯した罪の代償を、私が全く知らないあいだに支払ってくださったというのです。しかも、しぶしぶではなく、いやいやながらではなく、喜んで自発的にそうしてくださったのです。
なぜそんなことをしてくださったんでしょう。する必要もないのに。悪を犯した本人が罰を受けるべきなのです。しかし、神は罪人を憐れんで、代価をあの十字架の上で支払ってくださったのです。それは罪人を愛しておられるからです。神はあなたを愛しておられるのです。
キリストは命を捨てるため来られた
第三に、キリストは、いのちを捨てるために来られたのです。
先日私は、『おおきな木』という絵本を読んで大変感動しました。あるところに一本のおおきなリンゴの木があります。その木が大好きな少年は、木によじ登り、リンゴの実を食べ、疲れると木陰で休んで楽しんでいました。しかし、青年になると「木登りなんてばかばかしい」と言って遊びに来なくなってしまいます。
ところが、久しぶりにリンゴの木のところに来た時こう言うんですね。「デート代がない。金くれないか。」リンゴは「実を持って行って売ればいい」というふうに言うんですね。そして、実を全部持って行かれたリンゴの木は、そのときしあわせでしたと書いてあるのです。
やがて結婚した彼は、「家を建てるのに材木がない」というふうに騒ぐんです。リンゴの木は「太い枝を切って家を建てたらいい」と言います。彼は遠慮なしに枝をばっさばっさと切りとって、そして立派な家を建てました。そのとき木はしあわせでした。中年になった彼がやって来て言いました。「冒険するのにふねがいる。ふねをおくれ。」「ではわたしの幹を切りたおしてふねをつくりなさい。それに乗ってしあわせになってください。」彼はそうしました。
ずいぶん長い時間がたって彼は老人です。そして、老人になってまたやって来たんですね。木は言いました。「わたしにはもう何も残ってないよ。あなたにあげられるものが何もないよ。」老人になった彼は言いました。「今のわたしは、こしをおろして休める静かな場所がほしいんだ。」するとリンゴの木は言いました。「わたしの切り株におすわりなさい。」木も彼もしあわせでした。彼の安息の場となったのは一度切り倒された木の株です。
キリストは、一度十字架で死んで、倒れてくださいましたが、今は三日目に復活してあなたの休み場となっておられるのです。
どうぞこのキリストを信じて、あなたも神の救いに入ってください。心からお勧めいたします。
(マルコ10:45)