ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
先日、私はあるコラムを読んで日本語の学びになりました。『信用と信頼はどう違うのか』というコラムです。
この方によると信用とは、過去の実績や成果に基づいて下される客観的な評価のことです。なので、実績を積めば積むほど信用度が上がるんですね。
つまり、過去の成果に対する評価なんですね。それに対して信頼とは、その信用に基づいて未来の行動を期待することなのです。なので、多分に主観的、精神的なものなのだそうです。
これを書いたコラムニストはかつて勤めていた会社で上司の方からこう言われたそうです。「今はまだ経験も実績もない君を信用できないけど、成長しようとする君の姿勢をとても信頼しているよ。」
信頼の土台は普通は信用です。そして、信用の土台は過去の実績なのです。
聖書ほどの実績はない
そう考えてみるなら、聖書の神様ほど信頼できる方はいません。何故なら実績は十分すぎる程あるからです。
聖書に書かれた神の約束は今まで一つも外すことなく全て実現しているからです。今日はそんな聖書の中から信仰について考えてみましょう。
聖書はこう言っています。
私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。
過去にどんな罪があっても、神はある条件を満たす者を喜んで赦し、神の子として受け入れてくださるのです。その条件とはキリスト・イエスに対する信仰なのです。
では何故、神は人間に信仰を求められるんでしょう。3つのポイントで考えましょう。
信頼は人に必要なもの
第1に、神に対する信仰こそは人に正気と平安をもたらすからです。
私は先日、『独裁国家に行ってきた』という本を読みました。作者は世界204カ国をまわった方です。
その人が「この国ほど出国できた時にホッとした国は他になかった。」と言い切った国があるんですね。ベネズエラという国です。
社会主義の独裁国家です。貧富の差があまりにも激しく、治安が滅茶苦茶なのです。スラム街では道端に死人が普通に倒れています。殺人発生率は日本の50倍です。泊まった宿のすぐ近くで待ち伏せされた彼は私物を強奪されてしまうのですが、宿の従業員は見て見ぬ振りをします。それどころか、警察を呼んでもすぐには来ないのです。警官自身が殺されることを恐れているため、時間をおいてからでないと出動しません。いやそれ以上に、「警官や軍人など制服を着ている人を見たら逃げなさい。彼らが恐喝してくるから。」と忠告されてしまうほどなのです。
一刻も早くこの国から出ようと画策するのですが、何処に行っても賄賂を要求されるばかりで、昨年末のインフレ率は何と1,000万パーセントなんですね。なのでここでは、お金も信用できないのです。
その結果どうなったでしょう。国民が国から逃げ出したのです。すでにベネズエラを脱出した国民は200万人を突破していると言われています。
この国をひとことで言うと信じれるものが何一つない国です。信じれるものが何もないと、人はそこから出て行こうとするものです。
日本のように治安の良い国でも信用できる人、信頼できるものをどこにも見出せないと思い込んでしまったら、その人は生きることから脱出し始めるのではありませんか。
信頼は人が正気を保って生きていくのに必要な大切な態度なのです。
罪の本質は神を疑うこと
神に対する信頼を当然のように求めるその第2の理由は何でしょう。罪の本質は神に対する不信仰だからです。
神を信頼に値しないとする態度を聖書は罪と語るのです。というのは、人格あるものに対する最大の侮辱は疑いをかけるということだからです。
昨年亡くなられた劇画原作の第一人者小池一夫さんには、年老いてからも思い出す度に怒りが込み上げてくる少年時代の思い出があるそうです。
彼がまだ小学生の頃、隣りの席の女の子が苦手な算数の問題を一生懸命に取り組んで、なんと自分よりも先に解けたんだそうです。彼女は先生に喜んで見せに行きました。すると先生は彼女を一喝します。「誰に答えを教えてもらったんだ。」
彼女は誰の力も借りずに自分の力で解いたということを小池さんは知っていました。だからこそ彼女は喜び勇んで先生に見せに行ったんです。ところが、かけられた言葉は労いではなく叱責でした。
その時の彼女の悲しそうな表情を彼は晩年になっても忘れられないと言うのです。彼女は信じてもらえなかったんですね。そしてそれは人格あるものに対する罵倒ではなかったかと小池さんは言うのです。
神はあなたの作者で、全知全能者であり、した約束をこれまで一度もたりとも破ったことのない方です。
その神様の語るイエス・キリストの福音を信じないということは、神に対する侮蔑と同じことになるんですね。
聖書によると人類最初の罪は、人類の先祖アダムが犯した罪です。彼は神の言葉よりも悪魔の嘘の方が信用できると考え、神との約束を破ってしまうのです。つまり、罪の本質とは神を疑うことなのです。なので神は私たちに信仰を求められるのです。
信じるだけでいい
第3に、信仰はどんな状況かにいる人にもできることであるからです。
聖地を巡礼したり、断食をしたり、滝に打たれたり、分厚い経典を暗記したり、まぁ世の中の宗教って大抵、救いと難行苦行がセットになっています。そういうことができる体力や気力がある人であるならそれはできるでしょう。しかし、体力もなく、気力も失い、もはや死を待つだけの人には何の助けにもなりません。
ですが、信じるということはベッドに横たわりながらでもできることではありませんか。道を歩きながらでもできることですね。そして、今まさに息を引き取ろうとしている時でもできることなのです。それは、する事というより人格の態度です。信頼すると決めるという態度は1秒でできます。
では、誰を信じるんでしょう。神が遣わされたイエス・キリストを信じるのです。イエス・キリストを信じると何故救われるのでしょう。イエス・キリストがあなたの罪をあなたに代わって償いきってくださったからです。その償いが神に承認されたという証拠としてキリストは十字架の死から三日目によみがえられました。神がキリストによってあなたの罪の赦しの準備を全部してくださったのです。
なので後は信頼するだけで良いのです。「神様、今、イエス・キリストを信じます。私を救ってくださって感謝します。」とどうぞ告白してください。そして、心からイエス・キリストを受け入れたことを神に感謝なさってください。永遠のいのちと罪の赦しが即座に与えられます。心からお勧めします。
(エペソ3:12)