ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私は先日、数多くの劇画の原作を手掛ける小池一夫さんのエッセイを読みました。
小池さんは幼いころ、親戚の本家に養子に出されたそうです。その本家には男の子がいなかったためです。そこでの生活は、経済的には全く不自由の無い恵まれた生活でした。
しかし愛情という物差しで計ると、恵まれていたとは言えないんだ、というのです。
お手伝いさんが身の回りのことと全部やってくれるんですが、新しい父と母は彼に決して触れることがなかったのです。
血のつながりが遠い妹たちが母親に甘える様子を、冷めた目で見ているような少年時代でした。
この両親たちは、小池少年をあまり叱りませんでした。また周りの大人も、彼を叱るということはありませんでした。
怒られるということが一切無いということは、それはそれで淋しいことでした。それは自分に興味が無いということだからです。
本当の優しさ
それで彼は次のように書いているのです。
「やさしい人は信じる、やさしすぎる人は信じない。本当にやさしい人はきちんと厳しい。厳しい人は信じる。厳しすぎる人は信じない。本当に厳しい人は、ちゃんとやさしい。本当に愛するとは、間違ったときにはしっかりと正し、立ち直るようにしっかり支える。その両方がそろっているのが、本物の愛なんだ」と彼は言うのです。
さて聖書は人間の罪について、鋭く語ります。同時に罪からの救いや赦しも大胆に宣言するのです。
人が本当の幸せに至るために、神は罪と救いの両方を語っておられるのです。
それは神が、人を本当に愛しているからにほかなりません。
聖書に次のように書いてあります。
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
ここから3つのポイントで聖書の福音をお伝えいたしましょう。
罪は神様から離れること
第一に、すべての人は神に対して罪人であるという事実です。
ここでいう罪とは、法律違反のことではありません。もちろんそれも罪です。しかしより厳密には、聖書の語る罪とは、神から離れて生きることなんです。
「神など必要ない。自分にとって何が一番良いかは、神よりも自分のほうがよく知ってる。だから、したいことを気が済むまでやる。」という態度です。
しかし、それは神に対する見くびりです。神ほどあなたの幸せを願っている方はいません。
そして、あなたが幸せになるのにどうしたら良いのか、神よりもよく知っておられる方はおられません。なぜなら、神はあなたの作者であるからです。
作者は作品について、だれよりもよく知っておられるからです。
愛は行動で立証される
第二に、神はキリストによって、罪人を愛していることを明らかにしておられるということです。
愛はことばだけでは十分でありません。行動によって立証される必要があるんです。
先ほど小池一夫さんのことをお話ししましたが、実は彼はそのような育ち方をしたために、愛というものに対して、疑り深い人間になってしまったというんです。
そんな彼が、愛ってあるかも知れないと思うにいたる経験が、少年時代にたった一つだけありました。
ある時友人の家に遊びに行ったとき、植木の植物のとげが指に刺さってしまうのです。
彼は思わず「痛ぁっ」と声を上げたのですが、その時近くにいた友人のお母さんが、「大丈夫?」と言って駆け寄り、あっという間に小池少年の指を口に含んで、とげを吸い出してくれたというのです。
そして消毒し、絆創膏を貼ってくれたのです。その間、彼は一言もことばを発することができず、ただ固まったままでいたそうです。
キリストが神の愛を立証された
すべてが終わったとき、蚊の鳴くような声でひとこと、「ありがとう」というのが精一杯でした。
「友達のお母さんにとっては、おそらく記憶の片鱗にも残っていないことだろう、だが私にとっては82歳になった今でも忘れられないやさしい思い出だった。
そしてこの家に生まれていたら、幸せだろうなと、友達をうらやましく思った」と書いてありました。
どうしてそんなに小池少年の心をゆさぶったのでしょう。友達のお母さんがしたのは、ことばの愛ではなく、行動の愛であったからです。
神はあなたを愛しておられます。それは聖書にそう書いてあるだけではありません。神の御子キリストが、この地上に来て、実際に身をもって示した愛なのです。
キリストはあなたのすべての罪を背負って、十字架の上で身代わりのさばきを受けてくださったのです。
あなたの人生に突き刺さったすべての咎、傷、苦い思い出、苦しみ、それらの元となった罪を、キリストが引き抜いて、ご自分の身に突き刺すようにして十字架で永久処分して下さったのです。
そしてこの十字架の御業が、完全に成し遂げられたことを示すため、死後三日目に復活されたのです。
キリストの中に全てがそろっている
第三に、私たちに必要なことは、このキリストを救い主として受け入れるということです。
私は以前、人が神にインタビューするという形式で書かれた読み物を読んで、とても教えられるところが多かったです。
インタビュアーの人間は、神に次々とぶしつけな質問をするのですが、神は何を訊いても決して腹を立てないのです。
むしろその質問をぶつけてくる彼のことを喜んで、穏やかに答えていかれるのです。
「神様は人間の造り主として、作品である人間に学ばせたい人生のレッスンがあるとしたら、それはいったい何でしょうか?」
神は笑顔で応えます。だれにも愛されていないという人はいない、彼らを愛している人はいる。でもその人たちはそれを伝えるすべがわからないので、黙ったままになっているだけだということ、またお金では何でも買えるけど幸せだけは買えないということ。
「過ちを犯したときでもある人たちは赦してくれるだろう。しかし人は、自分自身を赦すことについてはいつも不十分だ。だから赦しを味わうことができないのだ。赦しがないのではなく、赦されているということを受け取らないので、赦しがないかのように思い込んでいるということ。これをわたしはレッスンとして学ばせたい。」
他にもたくさん、いろんなレッスンをしてくださるのですが、最後に神様がこのように語るんですね。
「最も大切なことは、彼らの人生で何を持っているかではなく、だれとつながっているか、だれを持っているか、ということだ」
神は神ご自身であるキリストを持つことが、何よりも重要だと最後に教えさとすのです。
なぜならイエス・キリストの中に、赦しも、救いも、祝福も、本物の愛も、全部そろっているからです。
いかがでしょう。どうぞあなたも、イエス・キリストをご自分の救い主として、信じてください。心からお勧めします。
(ローマ5:8)