
おはようございます、高原剛一郎です!
さて私の知人に再就職のために面接試験を受け続けている人がいます。
 10件20件と断られてもめげずにいましたけど、さすがに30社に断わられるとしんどそうでした。
 しかし、上には上がいるものです。映画俳優のシルベスタ・スタローンは50回以上オーディションに落ちているからです。
 それでも彼は俳優への道を諦めることは出来ず、ある工夫をしたのです。
 ある時、彼は倒し倒される壮絶なボクシングのタイトルマッチを見てひどく感動するんです。
 そして、これをヒントにロッキーの脚本を一気に書き上げるのです。そして映画会社に脚本を売り込んだんです。
 但し条件を一つ付けました。それは自分を主演にするということだったのです。
 どうしてもこの脚本を欲しがったある映画会社は、スタローンの条件を呑むしかありませんでした。こうして彼は主演俳優としてデビューするのです。

脚本を書いて主演を手にした
自分の力で罪はぬぐえない
50回以上オーディションに落ちていた無名の新人が、いきなり主演デビューできたのは脚本のおかげなのです。
 脚本とスタローンは二つで一つ、分けることが出来なかったので、彼は鮮烈なデビューを飾ることが出来たのです。
 これはキリストと罪人の関係をよく表していると思います。
 神は全く罪のない完全なる神の子イエス・キリストと、どうにもならない罪人をセットにして受け入れてくださるからです。
 人は自分の力で自分の罪をぬぐうことは出来ません。ただキリストの贖いの故に罪許されるのです。
 聖書の中にこう書いてあります。
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義と認められるのです。
ここから三つのポイントでお話しいたしましょう。
自分で解決できると思っているものは助けられない
第一に、人は自分を罪の結果から救うために何の働きもできないということです。
 ある羊飼いが崖から落ちて、途中の木の枝に引っかかっている小羊を見つけました。
 しかし、救い出そうとはせずそのまま行こうとするのです。
 友人が「どうして助けないのか」と尋ねると「あの小羊はまだ自分で自分を救おうとしてもがく元気が有り余ってる。
 あんな元気で暴れると助けに行った者までバランスを崩して落ちてしまうからだ。
 自分にはなんの力もないと分かるまで、また体力を消耗する時まで待ってから助けに行くよ。」
 人は自分で自分を救えると思ってる限り聖書の言葉に素直に耳を傾けることはありません。
 こと永遠の滅びから救われるためには、自分は全く無力であるということを認めなければならないのです。
人は自分のことが好き
第二に、不敬虔なものを義と認めてくださる方として神を認知することです。
 不敬虔な者とは神をも恐れぬ傲慢な者、罪人のことです。
 欠点だらけなのに威張り、神に生かされているのに自分の力で生きてるように錯覚し、迷惑をかけていてもそれに気付かず、のうのうと生きてるのが罪人です。
 あなたはこんな人を愛することは出来ますか。
 実は私は欠点だらけの鼻持ちなら無い人間を無条件で愛せていることに気が付きました。それは自分自身です。
 私という人間は怠け者だし、好色だし、すぐに天狗になったり、卑怯な考えが浮かんでくる、手前勝手なやつなのですが、それでも私はこういう自分を一方的に愛しているのです。
 時々自分が嫌いだと言う人がいますが、それは自分が好きな証拠だとも言えるのです。
 自分にがっかりしてるのは自分に対する愛があるからこそ生まれてくる感情なのです。
 例えば、大嫌いな人が無様なことをしてもがっかりしないでしょう。もともと嫌いな人が情けないことをしようが、大失敗しようが、それでショックは受けませんね。愛していないからです。
 ところが、自分が残念なことをするとひどくショックを受けるのは、それほど自分というものを愛しているからなのです。人は自分のことが好きです。
 そして、自分のことだけを好きなのです。なので自分を傷つける者は、たとい相手が家族や伴侶や友人であったとしても許せないということになるのです。
キリストがあなたの罪を解決された
ところが、神はそんな自己中心の人間を、義と認める、正しいと認めると言うのです。
 罪人を罪と認定しない裁判官はダメ裁判官ではありませんか。
 しかし、神は罪人を義と認めても不正にならない方法を取られました。それがイエス・キリストによる身代わりの死と三日目の復活なのです。
 神は人が自分でできなくなった事を代わりにしてくださいました。
 キリストがあなたの罪を永久かつ完全に処分してくださったのです。
派遣会社の応募に来たある男性
第三に、このキリストによる救いの故に罪人を受け入れてくださる神をただ信じるならば、それによっていかなる罪人も赦されるのです。
 なぜ信じるということがそんなにも重視されるのでしょう。
 先日、私は柴山さんという方のエッセイを読みました。この方は派遣会社のコーディネーターをしている方です。
 応募者を面接して派遣社員としてクライアントに紹介するんです。
 ある日黒いスーツ、黒いシャツ、パンチパーマに金のネックレスをした大柄の男性がやって来たのです。
 履歴書を見ると37歳、高校中退でその後夜の水商売を転々とし、空白期間も長い。直近においてはデリヘル嬢の送り迎えドライバーなのです。
 「はっきり言ってこの仕事はきついですよ。夏もエアコンほとんどききませんよ。何より嫌になったからと言って急に辞められるのが一番困ります。」
 彼女は面接に来た彼に対して否定的なことばっかりを伝えました。
 「それに失礼ですけど、ここしばらくお仕事されていませんが家賃どうなさってたんですか。」
 「ヒモっていうやつです。」
 「ヒモですか。それをやめたいということですか。」
 「はい。」
 彼は顔をあげてきっぱりとそう返事したのです。それは口先以上の何かを感じさせるものでした。
 それで柴山さんは関わってみることにしたのです。まず最初に指摘したのは服装です。
 「全部NGですよ。そんな恰好で会社に行ったら誰もまともに相手しませんよ。」
 ところがどんなに辛辣なことを言っても背筋をピンと伸ばしたまま「はい、はい」と聞くのです。
 そこで彼女は最後に、今までその仕事に着いてから言ったことがない言葉を言うのです。
 「私、あなたを信じていいですか。」
 彼は視線をそらさずはっきりと言いました。「はい。」
 「では紹介させていただくことになったら連絡します。」
人格ある神を信じる
彼が出て行くと同僚たちはみんなやって来て「ほんとに紹介するつもり?」などと聞いて来たそうです。しかし、新聞折り込み広告の印刷会社に紹介したのでした。
 それから半年たった頃、例の男性が事務所にやってきました
 。髪はすっかり刈られ、白いポロシャツに白いパンツ、精悍なプロゴルファーのようです。そして、こう言ったんです。
 「実は社長からお話があり、正社員にしたいと言ってくださったのです。それで、まず面接してくださったあなたにご挨拶に行こうと思ってまいりました。」
 「派遣から正社員になるとはずいぶん頑張りましたね」と声をかけると、彼は言いました。
 「だってあなたは私の事を信じてくださったではありませんか。」
 人格あるものに対してできる最高の敬意の表し方、それはその人格を信じるということなのです。そして神は人格ある方なのです。
 そして、不敬虔な者を義と認めてくださる方として信じるなら、神はその信仰を喜ばれ、イエス・キリストにあって義と認めてくださるのです。
 どうぞあなたも神の御子、イエス・キリストを信じて義と認められる道を選び取ってください。心からお勧めします。
(ローマ4:5)


































