#1343 人となられた神 キリストがなされたこと

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

イギリスのオックスフォード大学の研究者にチャールズ・フォスターって方がいらっしゃるんですね。彼は獣医師であり、弁護士でもあり、哲学者でもあり、自然作家でもあり、ということでマルチ人間の方なんですが、2016年にイグノーベル賞を取ってるんです。何をしたかと言いますと、動物になって生きてみた結果をレポートしたんですね。非常に壮絶な体験談となっていまして、例えば「キツネになって生きてみた」という章があるんですよね。ロンドンには野良犬ならぬ、野良キツネがうようよしておりまして、で、このキツネのように生きてみようということで、彼は人間のゴミ箱を四つん這いになりながら残飯を取り出して匂いを嗅いだり、食べてみようとしたり、車に引かれたドブネズミとかネコの死体をね、食べようとしたりね、さすがに口には入らなかったというふうに書いてありましたけど、壮絶です。
彼はですね、キツネの気持ちがわかるためにということで、地面に四つ足歩行でいくんですが今までの人間界と全然違うな、ということに気がついたというんです。実はですね、私たち人間というのは視覚から世界を把握している情報を持ってるんですよね。しかし、キツネとか動物ってのは聴覚だっていうんです。で、こういう四つ足動物の世界では頭の位置ってのが地面すれすれです。地面すれすれ状態にいると、地面がいつも音を出してるというか、たわんでいくのがよくわかる。地面ていうのは振動してるようです。
そんなこんなで、彼は動物の生活をやっていこうとするんですが、その中で一番気をつけたのは、人に見られることです。人に見られたら通報されます。通報されたら警官が来ます。警官が来たら、問い詰められます。理由を説明してもきっとわかってもらえないので、逮捕されたり、危険人物のように扱われるのではないか。それで人に見つかるのが一番こわかったって言うんですよね。そんなことをするのは、おかしな人がすることではないのかというふうに思われるからですね。
人間なのにキツネのように生きる、これが狂気じみたことであるとするなら、神が人の世界に人間として生まれるというのはもっと大きな落差を飛び降りることではないかなと思うんですね。
今日はクリスマス、人となられた神イエス・キリストのしてくださったことについて、三つのポイントで考えたいと思います。
まず、聖書の箇所をお読みしましょう。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神はご自分のひとり子をこの世に送られたは

まず第一番目に、神はご自分のひとり子をこの世に送られた。
赤ちゃんとして誕生して普通の人間の発達段階を経て大人になっていくという、哺乳類の一員としてこの世界に来てくださったんだというふうに言うんですよね。なんでそんなふうにされたのか。どんな臆病な人でも、恐れなく近づくことができる救い主となるためなのです。
今から80年前に日米戦争が終わりました。この日米戦争の最終幕において一番激戦区となったのが沖縄です。沖縄戦には日本語と英語の両方ができる日系人の兵士たちは通訳としてどうしてもなくてはならない人材だということで、250人が選抜されてそして沖縄戦にも投入されたのです。そのような米軍兵士の一人に坪田さんという人がいました。行くべきか、行かざるべきか悩んでいた時にお父さんから、「人を殺すだけが戦争じゃない。人を生かす戦いもあるから、おまえがんばって行って来い」と送り出されるんです。
言葉ではわかるけれども、人を生かす戦いっていったい何なんだろう。答えを持たないまま、沖縄に行ったんですが、実は沖縄にはガマという洞窟があるんですね。その洞窟のところにたくさんの民間人たちが身を潜めていたんですね。投降しないばかりか集団自決するというケースもあったのです。それはアメリカ兵が鬼のような存在だというふうに思われていたからですね。その時に坪田さんは人を生かす戦いをして来いというお父さんの言葉を思い出し、そうだ、今この時こそそれを実行する時だ、と言って彼は持っていた武器全部、身から外したんです。上半身裸の状態になって、日本語で優しく呼びかけたんです。「日本のみなさん、出てきてください」そうしましたら、幼い少女と目と目が合うんですね。「さあ、出ておいで。大丈夫だから。光の世界においで」って言って、ま、彼女が出て行くんです。それでぞろぞろぞろぞろ、その洞窟、ガマにいた人たちはみんな助かったというんです。
なぜ、集団投降できたんでしょう。武器を捨てて、人を恐れさせるような武力的なものを全部、自ら脱ぎ捨てて、そしておんなじ皮膚の色をしている日本人のその姿で現れたからでありませんか。
なぜ、罪に苦しんでる罪人がイエス・キリストのところに喜んで近づいて行ったのでしょう。この方はいかめしい姿で現れたのではなく、人としてこの世界に来てくださった方であったからです。

愛を示すためにキリストは来られた

第二番目に、なぜキリストは来てくださったのか。それは愛を示すためです。
神は、実に、そのひとり子をお与えになるほどに、世を愛された。世ってのは罪の世界のことです。神に反逆している世界のために神はイエス・キリストを惜しみなく与えてくださった。なんでそんなことをなさったんだろう。愛によってそれをしたのだというのです。
何年か前にある文章を読んで、非常に心に残ったんですね。小学校の教科書です。小学一年生の娘さんが帰ってくるんですよね。で、たまたまお父さんが早番で帰ってきてまして「お、おかえり。宿題何かあったの」って聞いたら「うん。今日の宿題、とっても楽しい宿題。家の人たちみんなに抱っこしてもらうっていうのが宿題」「おお、そうか。じゃあまず父さんが抱っこしてあげよう」次にお母さんが抱っこして、おじいさんが抱っこして、ひいおばあさんが抱っこして、彼女の二人のお姉さんも抱っこしてくれた。
次の日また学校から帰ってきたのでお父さんが聞いたんですね。「こんなに楽しい宿題だったら、みんなやってきただろう」「うん。でも一人やってこなかった子がいるの。わたしはね、クラスの中で一番たくさんの人に抱っこしてもらったということだったんだけど、でももっとわたしがうらやましいなと思う子が一人いたのよ。家に帰っても誰にも抱っこしてくれる家族がいなかったっていう子がいたら、先生はおこるかなと思ったらその子のところに行って、何回も何回も何回も抱っこするんで、わたしはうらやましかった」と言ったというのです。
なぜ先生は守れなかった子どもを何度も抱っこしたんでしょう。不幸な家族であればあるほどその心の傷を埋めたいと思ったのでしょう。何度も何度も、母親代わりに先生が抱っこしてくれたというんですが、実は聖書を見ると、神は父なる神です。そしてすべての罪人はまるで孤児のようなものです。自分のいのちのルーツから切れていて、自分がどこから来たのか、今なんのために生きているのか、死んだらどこに行くのかもよくわからない。人生の中で遭難しているようなものです。そんな人間を神は軽蔑するのではなく、むしろかえって心揺さぶられるような思いで抱きしめたい、愛を注ぎたい、救いたいと願って、ご自分のひとり子イエス・キリストを与えてくださったのです。

私たちに永遠のいのちを与えるため

第三番目に、私たちに永遠のいのちを与えるためなのです。
先日あるお母さんの手記を読んだんですね。仕事も忙しい時に、まだ二歳になるか、ならないかの長女がいるのですが、この子がどういうわけか、テンポが遅いんです。トイレ失敗するんですね。ある時とうとう切れてしまって「なんで言わないの。この口はなんのために付いてるの。言ってごらんなさい」この女の子が「ママ、ママっていうために付いてる」ってふうに言ったていうんです。わたしのこの口はお母さんを慕って、お母さんを呼ぶために付いてる口だ、っていうふうに言ったんですね。その時に聞いて、頭真っ白になったっていうんです。よく、親の愛は子どもに対して無条件というけど、逆じゃないか。こんなにダメダメな親、失敗の多いこんな私が、邪険にしても、振り払っても押しのけても、それでも慕って「ママ、ママ」ってやってくるというのを見た時に、こちらの方が無条件の愛だというふうに思ったというんですね。
ところで人類のすべての罪を償うためには、このキリストの身代わりとこの方の復活によって救いが完成しました。誰でも御子を信じる者は一人として滅びることなく永遠のいのちを持つ。これがクリスマスのメッセージです。
ぜひこのイエス・キリストを信じてください。そして永遠のいのちをいだだいてください。心からお勧めいたします。


使用CDジャケット
国分友里恵:さやかに星はきらめき

今日のみことば
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネ3:16)