ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて、今年2025年、書店員が選ぶノンフィクション大賞という、まぁ売れ筋の本の授賞式があったんですね。受賞されたのは鈴木俊貴さんという方の書かれた『僕には鳥の言葉がわかる』っていう本なんですね。私も読んでみたんですけど、いや実に面白かったですね。東京大学動物言語学准教授の方で、新進気鋭、世界でも注目されてる学者なんですね。
シジュウカラという鳥を研究しましてね、10年間で2万件以上の鳴き声を収録して、そして、その分析をかけることによって、シジュウカラというのは、200以上の音節を使いながら、30の単語を使ってるって言うんです。文章まで作ってるということを、学術的に探り当てたということで注目されてるんですね。
例えば巣箱のところにガラスケースの中に入れた蛇を下に置きます。そうしますとですね、親鳥が巣箱の中のシジュウカラに向かってね「ジジジジジジジジジ」と、こういう鳴き声出すんですけど、それを聞くや否や、ヒナたちは興奮状態になって、小さな巣箱の穴から次々と飛び立って行くんですよね。実はこの言葉、この音声と言いますか、これ蛇なのです。いろんな実験をやりながらですね、鳥たちの言葉をですね、聞き分けることができたということで、まぁその科学エッセイということで本になってるんですけれども、いやぁ興味深かったですね。
このシジュウカラっていうのは、夜明け前によく鳴くそうです。ですから音声を収録するためには、4時起き、冬なんかだったらめちゃくちゃに寒いですよね。それでも彼がそうするのは鳥のことが大好きで、そして、鳥のことを知りたいという好奇心が彼を駆り立てているんですよね。自らが鳥の生活圏の中に身を置いて、はじめて本当に鳥の姿がわかるんだという考えのもとに、彼はそのようなフィールドワークをしているということなのです。
同じように、神は私たちの人間の世界のところに、ご自分のひとり子の神を送ってくださいました。神なのに人として、この人間世界の中に誕生してくださった方、人となられた神、それがイエス・キリストです。このイエス・キリストの誕生という事実を記念するのがクリスマスですね。さて、このイエス・キリストには称号があります。それは『インマヌエル』ということばなんですね。聖書の中に次のようなことばがあります。
その名はインマヌエルと呼ばれる。それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
今日は3つのポイントでメッセージをお届けいたしましょう。
神は私たちにいのちを与えることができる
神は私たちとともにおられる。これがキリストの使命なんですね。ところでここで言ってる神というのは、人間が造った神ではなく、人間をお造りになった神なんです。この“が”と“を”一字違いで大違いなんですよね。
先日、あるスーパーマーケットにお詫びの看板が出てたんですよね。どんなお詫びであるかと言いますと、「広告に掲載していた商品に誤りがあります。国産うな重、実は、中という文字が抜けていました。国産うな重ではなく中国産うな重です。謹んでお詫び申し上げます」という内容の看板だったんですね。国産か中国産か、値段全然違ってきますからね。えらい間違いですよ。
でも、もっと大きいのは人が造った神々、これは人を助けることできないんです。人をお造りになった神だけが私たちを新しくすることができる。私たちにいのちを与えることがおできになると言うのです。これがまず第一点です。
神が人間の側に立ってくださる
ところで、神は全知全能の方ですから、人間にならなくても人間の本質がどのようなものであるのかということについては知り尽くしておられるんですよね。わざわざ人間を経験しなくても、人間とはいったい何者であるのか、作者であるのでよくご存じなんです。にもかかわらず、なぜ人としてこの世界に誕生してくださったんでしょうか。それは、本当の意味で神が自分の側に立ってくださってるんだということを体感し、イメージできるようにし、そして、神とつながっていく救い主となるために人となって来てくださったんだって言うんですね。
私たちは、例えば、この全然見ず知らずの人や、程遠い手の届かない人から何か言われても、あんまり気にしないし、届かないんじゃないかなと思うんですよね、言葉が。だけど、自分と運命共同体の人や、自分の側に常に立ってくれる味方となってくれてる人の言葉っていうのは、本当に大きな力となるのではないでしょうか。
先日、『鬱になった時に効いた言葉』という、そういうエッセイがありまして、私は読んですごく心に留まったのです。あるサラリーマンがどう見ても、ブラック企業に勤務なさってるんですが、重大すぎる責任を負わされて、長時間の労働時間の中で心身すり減って、とうとう過呼吸が止まらなくなり、そして、1ヵ月間の休養を取るんですね。しかし、1ヵ月たったらまた出社しなければならないということを考えると、どうにもこうにも気力が湧いてこない。
それで、「もう辞めようかと思うんだけど、でも踏ん切りがつかない」っていうふうに奥さんに言うんです。なぜ踏切りがつかないのか…。「今いてる会社で通用しない人間が次の会社に行ったからといって、十分に役に立つかどうか自信がない」って言うんですよね。それに対して奥さんが「いやいや、ブラック企業で働けているという、この一点で十分に能力があるということが証明されてると思うわよ。大丈夫よ」「いや、だけど、今辞めてしまったら会社のみんなに迷惑かけることになるんじゃないだろうか」「いえいえ、日本の法律では辞める権利というのがちゃんと保証されてるのよ。あなたは自分のことを後回しにして会社のこと言うかもわからないけど、あなたの決断の方が法律は支持するのよ」「いや、なんだか、このつらいからやめるというのは負け犬みたいに思うんだけど」「いやいやいや、あなたの心とかあなたの身体、あなたの家族を守るという行為に出てるんじゃありませんか?」「いや、でも住宅ローンがあるし、子どもたちの進学の費用のこと考えたら」「あなたは辞めたいと思ってるのよね。私も辞めた方がいいと思っている。ということは、二人が一致して辞めた方がいいと思ってるのよね。二人が合意して一致した上で辞めたら、その辞めた後どうなったとしても責任は半分半分で、あなたが全部背負わなくてもいいんじゃない?」この一言が効いたんですね。一家の大黒柱として私が何もかも背負って責任を負わなければならないという、その重圧から解き放たれて、「そうだ、私には運命共同体の妻がいるんだ。この妻が一緒に担ってくれてるんだということがわかるだけでも全然プレッシャーから解放されて、そして今、新しい会社で十分に健康的に働くことができてる。妻に感謝だ」っていうふうに書いてありました。
皆さん、私たちは自分一人ですべての責任を負うなんてことはできません。キリストはこうおっしゃったんです。
「すべて疲れている人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげる。」
私たちが生きていくうえにおいて担っていると思ってる、そのすべてを私たちに代わって背負ってくださる方、あなたのすぐ傍にいてあなたの味方となって、あなたに寄り添うために人となってくださった神、それがイエス・キリストという方なのです。
罪を永久処分するための犠牲
第3番目に、神と人とが永遠に一緒にいるためには、どうしても神と人との間にある罪の問題を解決しなければならないんですね。この罪の問題を永久処分するために、神は人となってくださる必要があったのです。
なぜならば、罪の永久処分のためには、罪のないいのちが身代わりの死を遂げなければならないからです。神は全知全能の存在者ですから、死ぬことできないんです。なので人となってくださいました。しかし、人となって死んでくださるだけではなく、3日目によみがえってくださったんです。よみがえれるのは神だけです。どうしてイエスは人となった神とならなければならなかったのか、私たちの罪を永久処分し、そして処分し終えたことを立証するためによみがえるためであったんですね。
どうぞ、あなたのために人として生まれ、十字架にかかって死に、三日目によみがえられたイエス・キリスト。この方を救いの主として信じ、永遠のいのちをいただいてください。心からお勧めいたします。
そして男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
(マタイ 1:23)


































