#1038 圧倒的なキリストの愛を受けよう

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

さていよいよ受験シーズンのピークを迎えました。高校受験、大学受験、国家資格試験、それらを前に奮闘するみなさんに心からエールを送ります。
ところで受験勉強の総仕上げに必ずやることが一つありますね。それは受験校が過去に出題した問題を解いてみるということです。いわゆる、過去問というやつですね。そして答えをよく確認してみる。そうすることで志望校の傾向と対策を練ることができるのです。
実は聖書というのは、人生の過去問とその解答を示したものだとも言えると思うのです。というのは、人間の悩みというのは本質的には、今も昔もそう変わることがないからです。私たちよりも先に生まれ、人生の荒波の中でもみくちゃにされ、大いに苦しみ、大いに悩み、大いにもがいてきた先輩たちの赤裸々な生涯が聖書の中には書いてあるのです。
そしてただ苦しんだ記録で終わるのではなく、そこからの脱出方法、乗り越えるための知恵やあるべき態度が語られているのです。今日はキリストとその弟子ペテロの対話を通して考えてみましょう。

復活後のイエスキリスト

十字架処刑後、死からよみがえったキリストは、復活した姿で弟子たちの前に現れます。そして大きな失敗をしたペテロに、どのような死に方で神の栄光を現わすかを告げるのです。つまり、彼は最期は殉教するということを告知されるのです。
そのように言われたペテロのすぐ隣にヨハネという弟子がいました。
聖書はこう語っています。

主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。

ここでペテロはヨハネという他の人と自分を比べて、この人はどうなのですか、というふうに聞くんですが、キリストはそれがあなたと何の関わりがあるんですか、と言って、人と比べることを戒められたのです。
なぜ人と比べることをたしなめられたのでしょう。三つのポイントでお話しましょう。

他人と比べることは無意味

第一に、人と比べることは無意味なことだからです。
同じ製品を買ったのに、自分の買ったものだけが正常に動かなかったら、それはクレームをつけてもよいことです。同じであるべきものが同じでないなら、それは問題にして良いんです。
しかし、人は一人ひとり同じに造られてはいません。私の姿、かたち、私の能力、私の好み、私の特性、私の生い立ち、私の家族。それらはみな非常に個性的なものであって、別々のものです。
元々異なるものとして生まれ出たので、同じではないことを問題にすることは意味がありません。私は私として世の中に一人しかいないものとして造られました。同じように、あの人はあの人として、私とは別の人格あるものとして造られたのです。
人間同士で比べたら、どっちが偉くてどっちが賢くて、どっちが強くてどっちが弱くて、優劣の物差しが必ず入ってきます。特に今の風潮は、すぐにレッテル貼りをすることですね。
曰く、勝ち組と負け組み、上級国民と下級国民、キャリア組とノンキャリア組、ゆとり世代と非ゆとり世代。こういうレッテル貼りの根底にあるのは、比較による自己存在の価値確認です。
しかし、人をそれぞれ違うものに造られた神にとっては、一人ひとりがなくてはならない存在、高価で尊い存在なのです。

人と比べると惨めになる

第二に、人と比べることは、人間を傲慢にしたり、卑屈にしたりしてありのままの自分の姿を見えなくさせてしまうのです。
なぜあの人は美しいのに、私はそうではないんだろう。なぜあの人は人気者で魅力があるのに、私は地味で暗くて、くすんでいるんだろう。なぜあの人は明るい家庭に生まれたのに、私は崩壊家庭に生まれたんだろう。なぜあの家は子だくさんなのに私たちには子どもがいないんだろう。人と比べると、卑屈になるだけではなく、人生の不満と怒りが神に向かっていきやすくなるのです。
昔アメリカに、アーサーアッシュという黒人のテニスプレイヤーがいました。人種差別に合いながらも、テニスを志し、全米オープンで優勝し、1975年には黒人選手として史上初めて、ウインブルドンの覇者となるのです。コートの外でも人権擁護運動で活動し、多くの弱い人々に勇気を与え続けてきた人格者です。
しかし、人間として最も脂の乗り切った時、輸血によってHIVウイルスに感染し、エイズを発症してしまうのです。当時はこの病気への偏見がひどく、彼は実に無礼な質問にさらされていくことになります。
ある時こう訊かれたのです。「なぜあなたのように、りっぱな生き方をしてきた人がこんな惨めな目に合うんですか。なぜ一生懸命真面目に生きてきたのに、こんなひどい目に合うんですか。神はひどいとは思いませんか。」
それに対してアーサー氏はこう答えています。「もし私がエイズになったことに、なぜかと神に詰問する資格があるなら、私は別の質問にも答えなければならないでしょう。なぜ、私の少年時代、あんなにも善意にあふれた大人たちが回りにいたのか。なぜこんなにもかしこくて、なぜテニスを志した時、超一流のコーチが手弁当で現れて助けてくれたのか。なぜ、こんなにもかしこくて美しい妻と結婚することができたのか。なぜウインブルドンで優勝することができたのか。いくつか降りかかった残念なことになぜと問いかける資格があるとするなら、その何倍もあった良きことにも、なぜと問うべきです。私は他の人の人生と比べるつもりはありません。私は私の人生を生きるのです。」
彼は人と比べて惨めになることを断固として拒否しました。神は一人ひとりにそれぞれの取り扱いをしておられるのです。なので比べるということはナンセンスなことなのです。

神はあなたを愛している

第三に、人のことは放っておいて、あなたはキリストのところに行きなさい、という勧めです。
ブレナン・マニングという人は、神の愛をナイアガラの滝に例えてこのように言っています。「神さまの愛の重さに耐えきれず、天が裂けて、その愛がナイアガラの滝のように十字架に流れ落ちてきた。その流れ落ちる愛を受けるのに、私たちの器の大小比較しあって、それが一体何になるだろう。ナイアガラの滝のように流れ落ちる愛を受けるのに、器の大きさの違いなんか何の意味もありません。私たちにできることは一つだけです。さあ、イエスの十字架の下に行って、あの凄まじく大量に流れ落ちるキリストの血潮の愛を一緒に浴びていこうじゃないか。」
神の愛はどんなにたくさんの人が受け取っても減ったり不足したりすることがありません。ただ受けるだけでよいのです。
そして自分が神の愛と赦しを全身に浴びて満喫していくとき、他人をうらやむ必要など一つもないということがわかってくるのです。
いかがでしょう。神はキリストに在ってあなたを心から愛しておられます。どうぞあなたもこのキリストのところに行って、流れ落ちるキリストの愛を、救いを、受け取ってください。心からお勧めします。


使用CDジャケット
国分友里恵:天の喜びと無限の愛を

今日のみことば
ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。
イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
(ヨハネ21:21~22)