
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
はい、みなさま、こんにちは。まずテキストですね。ヨハネ第一の手紙の4章10節、キリストの十字架の場面のことを思い返しながら、ヨハネが語ったんですね。こう書いてます。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
私たちどうですかね、迷宮入りの事件とか聞いたらね、自分と関係ないことなんだけれども、なにかこう落ち着かない気持ちになると言うか、ぜひ犯人つかまって欲しい、償って欲しい、悪が横行して誰も止めることができない。それがずーっと延々と続いているとか聞いたら、「何でこんなことがいつまでも許されるんだ!」っていうような気持ち。
今ロシアで北朝鮮の兵士がね、三千人送られて、ロシア人によって殺された北朝鮮兵の顔がねバーナーで焼かれてるっていう動画がね、フェイクかどうか知りませんけどね。独裁者の一存で、たった一つしかない命をそんなふうにされてね、よその国のことだけども、「こんな独裁者、神よ、いつまで、のさばらしてるんでしょうか!」っていうようなそんな気持ち。そういう気持ちになってるときに私の心は休息できません。私のように不完全な人間の良心と言うか、正義感でもね、あからさまな不正がまかり通ってるのを見たら休むことできないです。
ましてや完璧な義の心を持っている正義の神は人間の罪見た時にどうして休息できるでしょう。その神に休息を与えるささげ物のことを「宥めのささげ物」って言うんです。宥めという言葉は休息です。つまり神がご覧になってもどこにも罪が見えなくなるような完璧な赦し、一点の非の打ち所のない、罪がどこにもなくなってしまったような、そんな完全な義をもたらすためには、どんな罪も呑み込んでしまう完璧な身代わりの犠牲が必要なんです。その身代わりの犠牲となるために神はひとり子の神、イエス・キリストをこの世界に遣わしてくださったのでした。
キリストが生まれることが預言されていた
ちょっとね、もう一箇所見たいと思うんですね。今度イザヤ書っていう所をご覧くださいますか。イザヤ書の9章。これはキリストが生まれる七百年以上前の預言なんですよね。救い主の誕生について預言してるんですが、一行目見ますとね。
ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。
皆さん、赤ちゃんとみどりご、どう違いますか。赤ちゃんとみどりごって違いますよ。みどりごっていうのは赤ちゃんのうち、生まれたての、生まれたばかりの赤ちゃんのことをみどりごって言うそうです。赤とか緑とか。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。」つまりこれメシヤの預言なんですけど、メシヤの性別は男で、そして生まれるっていうんです。医学的に生まれるとはどういう定義があるかと言いますと「母体の外に出ること」を生まれるって言うんです。卵の外に出るのは孵化です。つまり母体から外に出るというのは哺乳類。つまりメシヤは哺乳類になるという預言です。
あのねちょっと預言で一個思い出しましたね。ある方に取材するためにね、私ね永田町に向かってたんです。東京の地下鉄ってねめっちゃややこしいんですよこれ。余りにもこうスマホに熱中するあまりですね、どこの駅いてるかいうの忘れてるわけですよね。ほな隣にいてた女の方がですね「永田町着きましたよ」って言ってね、「あ、ありがとうございます!」って言ってねギリギリ飛び降りたんですけどね。たまたま隣に座ってる人がね、何で私が永田町で降りるって知ってんの。不気味じゃないですかこれ。預言者?いやいや。多分ね、私のスマホ覗いたか、実はね、私ね悪い癖がありましてね。口に出してしまうんですよ。自分がこれからしようとしてることを発表してたんかと思ったらね恥ずかしいやら情けないやら。まあでもそうであったら合点がいきます。
キリストの十字架の意味
皆さんなぜ神が人とならなければならなかったか、神でなければ人を救うことできないんです。人間どんな人でも何か問題持ってるんじゃないですか。完璧な人っていませんよね。自分というたった一人の人間の問題を完全解決できない人が、他の人の問題解決できるでしょうか。できない。人を救うことできるのは神だけなんです。しかし、人が救われるためには血が流されなければならない。身代わりのいのちをささげなければならない。つまり罪人に代わって死ななければならない。神は死ぬことできないんです。神でなければ救うことはできない。しかし神のままであるならば死ぬ事はできないから救いが完成しない。なので人となられました。なぜなら人は死ぬからです。私たちに完全な罪の赦しを提供するために、天から人となって死ぬために来てくださった方、それがイエス・キリストという方です。
ところでこの手紙を書いたヨハネという人物は十二弟子のうちの一人ですが、唯一、十字架の現場にまで行って目撃し、十字架にかかっているイエス・キリストと会話をした唯一の弟子なんです。人となった神だということを彼は信じていましたが、それだったら無敵のはずです。しかしキリストは無抵抗のまま十字架にかけられて、釘づけられて、鞭で打たれて、でもヨハネの心の中に、それを見上げながら、どこかに、今にキリストが十字架から降りてくるに違いない。今に神がさばきを下すに違いない。そしてキリストは無敵の力、奇跡の力で十字架から降りてきて、まばゆい力で罪人たちを成敗するに違いないと思っていたら、何にも起こらなかったんです。他の人々の目には敗北者のように見えました。何て惨めな最後か。親切ばっかりやって、親切にした人たちからののしられて、最後おしまい。こんな生き方だけは絶対したくないわっというような死に方でキリストは最後終えたんです。
「何でこんなことが許されるんですか」とヨハネは思ったでしょう。しかし、後で分かったんですね。あの十字架のキリストの姿は敗北者じゃない。ここに愛がある。神の愛は、このキリスト未満の犠牲によっては表しきることができないほど大きな大きな愛で、この方は私たちの代わりに死んでくださることによって愛を示してくださった。完全な犠牲を払ってくださったということです。そして死んでくださったということは、もう一つ理由があるんですよね。身代わりの死であると同時にね、よみがえるために死んでくださったんです。死んでない状態でよみがえることできませんよね。死んでよみがえるための死であったんです。
新しい希望と祝福の道
ヨハネこれ書きながらね、「聖書の預言とは言え、こんなにもひどいところをイエス・キリストは通ってくださったのか。感謝だ!」預言は必ず実現するということですよね。とするならば、キリストにとって、こんなにもむごい内容の受難の預言ですら間違いなしに実現されるとするならば、キリストにとって喜びの聖書預言は、なおさらのこと速やかに実現するんじゃないですか。このテーマはですね「新しい希望と祝福への道」なんです。罪の赦しと祝福が待っていますが、クリスチャンになると新しい希望が与えられます。その新しい希望というのは、この地上を歩んでいる間、イエス・キリストがエスコートしてくださるということです。主と共に歩む人生というのは本当に最高です。冒険の人生ですよ。そして、死んでも天国に行けるという希望があるだけではなく、いつかどのタイミングか分からないんですけどね、「携挙」という約束があるんです。この携挙というのは携え挙げると書いて携挙、携帯電話の「携」に選挙の「挙」で携挙なんですが、これはねいつ起こってもおかしくないんです。
僕は願わくばね2025年早く来てください。その頃には執筆も終わってるし、もうはよ来てください。もうねー、もうやるだけやった。延びたらまだやります。やりますけどね、これねいつあるかも分からない。そのね「携挙あるんですよ」って「あるんです」「よー」のぐらいの時にあったら、すごいドラマチックと思いません?「あるんですょ、フワー!」ってもう。でもそんなにもね、長ーく先延ばしされているのはまだ信じていない方々のためです。「新しい希望と祝福への道」それはイエス・キリストの中にあります。ぜひイエス・キリストを信じて、クリスチャンになってください。そしてキリストの弟子となってください。心からお勧めいたします。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
(1ヨハネ4:9-10)