ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
先日、メルセデスベンツの生みの親であるカール・ベンツの本を読みました。彼は世界で初めてガソリンエンジンの自動車を造った人です。しかし成功するまでは、うるさい、臭い、子どものおもちゃだと世間の笑いものだったんですね。そんな中、一貫してぶれることなく、彼の味方となって協力し続けた人が一人だけいたんですね。妻のベルタさんです。彼女は助手席に座っていつも走行試験に同乗しました。しょっちゅうエンストしましたが、そのたびに手で車を押したり、油まみれになったりして、一緒に車造りに取り組んだんですね。カール・ベンツ、彼一人の力で世界初のガソリンカーを発明できたのではありません。励ます人がいて、初めてそれが可能になったのです。
実は聖書の神は、あなたを励ます神です。あなたのすぐそばにおられて、あなたを力づけるイエス・キリストこそ、あなたの救い主であられる方なんですね。このキリストが十字架にかかる直前、次のように弟子たちに語れれました。
これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。
さてここでキリストはこの世やその価値観は、人に苦難を与えるものとなると言われたのですが、世というのは神に反対する世界のことなんです。創造主を除外した世界観、これは人間から平安や尊厳を奪うものだと言われているんですね。
他人から見た自分の姿
ところで私は先日落とし物があったために、交番に立ち寄ったのです。すると所狭しと全国指名手配の容疑者顔写真がべたべたべたべたと貼られていたのです。驚いたのは容疑者の顔が写真ではなく、似顔絵情報のものが思っていたより多くあったことです。目撃者の証言によって作られる犯人像にはモンタージュ写真というのと似顔絵の二つがあるそうです。
モンタージュ写真というのは、目撃者に顔のパーツを見せて組み合わせる合成写真なんですが、あんまり正確なものができないそうです。というのは何千枚も写真を見ているうちに目撃者の記憶が曖昧になってしまうっていうんですね。自分が後から見た情報によって記憶が影響を受けてしまい、そもそも見た映像がわからなくなってしまうというのです。ところが似顔絵の場合は、自分が見た外見を言葉で伝えるだけなのですが、実に正確に描けるんだそうです。
先日、警察の捜査にも協力する似顔絵画家が登場する海外のコマーシャルを見ました。二人の女性が会話をした後、そのうちの一人が似顔絵画家の部屋に入っていくんです。そして自分の顔の特徴を話すんですね。本人と画家の間には仕切り版があるために、画家は彼女の姿を一切見ることはできません。画家は言われた言葉を手掛かりにして、その人の似顔絵を描くんです。次に彼女と話していた女性が画家の部屋に入って行きます。そして自分が話していた相手の特徴を言葉で伝えるのです。つまりこの似顔絵画家は同じ人間の顔を二人の異なる証言で描くんですね。
さて結果はどうでしょう。瓜二つの同じ顔の似顔絵が二枚揃うんでしょうか。そうはならないんね。感じはなんとなく似てるんですが、別人です。そして本人が申告した情報による似顔絵よりも、話し相手の言った言葉で描いた絵のほうがはるかに魅力的なのです。この実験を三組の人にしてみるのですが、三組とも話し相手の言葉による似顔絵の方がはるかに魅力的に描かれているのです。
そしてその絵を見た本人たちは、三人とも泣き出すんですね。自分が思い描いている自分の姿よりも、あの人のまなざしに映っている私ははるかに魅力的なのだということを知って、感激したり、心が騒いだり揺れたりするんですね。なぜ自分を醜く、自虐的な見方で画家に語って伝えたんでしょう。実際そのように見えてるからです。しかし、それは本当の自分の姿ではないのかもしれないんですね。
進化論の価値観
聖書は、誰よりも温かいまなざしであなたのことをご覧になる神のことを紹介しています。
このように書いてあるからです。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。
ところがいつの間にか自分のことを卑下し、負け犬のように評価し、ダメ人間と思い込んでいる人が多いです。
それはなぜでしょう。この世の人間観で自分をはかるようになってしまった結果です。この世の人間観によりますと、人は神によって造られたのではなく、偶然生まれた生命が進化した結果人間になったというふうに教えています。いわゆる進化論ですね。人間になるまでの間、長い長い時間をかけて、弱肉強食を繰り返して生き残ってきたものたちの子孫が人類なのだと説明しているのです。
つまり、強いものには生きる権利があるが、弱いものには滅びて当然である、能力があるものには価値があるが、能力がないものは生きる資格がない、そのようにふるいにかけられた結果、我々が登場したのだ、という一つの哲学なのです。いつの間にか、できる人間には価値があるが、できない人には価値がないとする人間観が世間に定着しているだけではなく、自分自身の中にもそれを取り込んでいるということに気がつくのではないでしょうか。
キリストが身代わりになるほどの価値
ふと気がつくと、自分の実績や仕事が自分になってます。しかしそれは、間違いです。人間に与えられている能力は、たしかにすばらしく、それを否定することはありません。しかし、能力の有る無しが人間の価値を決めるのではないのです。人は神のかたちに似せて造られたので、価値があるのです。そして神の目に人が価値あることを行動で示すために、キリストは天からくだって、人となり、十字架にかかり、死んでくださったというのです。
つまり、あなたはキリストが身代わりに死んでくださるほどまでに尊い存在なのだというのです。キリストのいのちの値段が、あなたにつけられています。神は、あなたをキリストのいのちと交換するようにして、贖い取ってくださったのです。いや、それだけではありません。この方は墓に葬られた後、三日目に復活なさったのです。死んで一巻の終わりではありません。
人間は死後にさばきを受けることが定まっていたのです。しかし、キリストがあなたをかばって、代わりにあの十字架にかかってさばきを受けてくださったので、あなたは赦されるのです。人は赦しを必要としています。そしてキリストはその赦しを喜んで提供しておられます。
どうぞあなたもこのキリストを信じ、受け入れてください。心からお勧めいたします。
(ヨハネ16:33)