#1091 聖書の主人公イエス・キリスト

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

昨年、私はKKRホテルという所でクリスマスのミニコンサートとメッセージを語る機会に恵まれました。
会場に入って驚いたのは一方の壁が全面ガラス張りになっていることです。そして、そのガラスの向こうには大阪城の天守閣が真正面に見えるんですね。
あんまり見事なので窓ガラスの近くに立って繁々と眺めておりました。するとそこへホテルの支配人がやって来てこう言ったんです。「実は、窓から離れてご覧になった方が天守閣が大きく見えますよ。というのは、このガラスは全てレンズになっているからです。」
半信半疑で少しずつ離れてみると大阪城がぐんぐんでっかくなってとうとう窓からはみ出すほどにまでなったのです。「すごいですねぇ!」と言うと、「このホテルの主人公は大阪城ですから。」という答えが返ってきました。
主人公に注目することでホテルの良さがより良く分かるっていうんですね。
ところで、聖書にも主人公がおられます。それはイエス・キリストです。聖書はイエス・キリストを知るために与えられた神のことばと言って過言ではありません。
そこで今日はイエス・キリストがくださる3つの賜物について考えましょう。聖書はこう語っています。

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。

首の鎖を離す

第1に、キリストは私たちを贖ってくださったということです。
ところで『贖い』って一体何でしょう。アフリカにバンバラ語という言語があるそうです。この言語で『贖い』に『首をはずす』という意味の言葉を当ててるそうです。
昔、奴隷に売られた黒人たちは首に鎖をかけられました。そして、奴隷船に乗る時には船底の金具に首の鎖を繋がれたのです。一旦鎖で繋がれるとどうやっても逃げることはできません。まるで動物のように自由を奪われ万一船が沈む時には自分も沈む以外にないのです。
そのようにして連れて行かれる先に待っていたのは恐怖と苦痛の人生です。しかし、金を払って解放されるならば首の鎖をはずすことができるのです。首の鎖をはずすためには自由になるための代金を払う必要があります。この自由の代価を支払うことを『贖い』というんですね。
私たちは今自由人ですね。奴隷ではないと思います。しかし、誰もが罪と死の奴隷でもあるのではないでしょうか。

死の根本的解決

昔、初孫が生まれて喜んでいる人が一休さんに「何かめでたいことを書いてください。」と頼んだことがありました。
一休和尚は達筆でスラスラとこのように書いたんですね。『親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ』という一文です。
「こんなめでたい日に何ということを書くんですか。」というふうに言ったその依頼者に対して一休さんはこう言いました。
「人は皆死ぬ。ただ順番が違うだけだ。親が先に死に、次に子供が死に、最後に孫が死ぬのはめでたいことではないか。嘘だと思うならその逆だと思って考えてごらん。」と言ったそうです。ここには人間が考え出せる死に対する解決策が見事に描かれています。
さて、一言で言うと「諦めなさい。」という解決です。しかし、聖書は諦めとは違う根本解決を語っているのです。キリストがあなたの代わりに十字架の上で罪の身代金を払ってくださったのです。
もしあなたがこのキリストの申し出を受け入れるなら、あなたは死んでも滅びの世界に落ちることはありません。あなたが行く所は天国になるのです。

わがままな振る舞い

第2に、キリストは神の恵みを与えてくださいました。では、恵みとは何でしょう。
ドフトエフスキーの作品に『カラマーゾフの兄弟』というのがあります。その中に“ゾシマ”という長老が出てくるんですね。彼は元々軍人で、イケメンで、実力者で、お金持ちです。夜の社交会のヒーローでした。
そして、とあるパーティでひとりの女性に恋してしまうんです。しかし、彼女は婚約中の女性でした。ゾシマが旅行中に彼女は結婚してしまいプライドを傷つけられた彼は、彼女の夫を公衆の面前で散々に侮辱するんですね。そして次の日、決闘することになるのです。
興奮状態のゾシマは家に帰ると玄関に立っている当番兵をものも言わずに殴り倒してしまします。そして自分の部屋に入ると3時間ほど睡眠をとります。気がつけば朝になっており、窓からは日光がさし込み、小鳥のさえずる声が聞こえてきます。
しかし、何か自分の心の中に引っ掛かるものがあるんですねぇ。それは何の咎もない当番兵を八つ当たりで問答無用に殴りつけたことです。何というわがままな振舞いであったことでしょう。

奇跡的に生かされている

その時、以前兄から言われていた言葉をふと思い出すんですね。「すべての人は罪人です。もしそのことが分かればこの世界は楽園のようになるでしょう。」その言葉の意味が何となく見えてくるんですね。
自分は散々周りの人間を傷つけ、引っ掻き回し、ダメージを与えています。しかし、朝になると太陽が昇り、小鳥が歌い、温かなコーヒーが用意されている。不当な扱いをしているのに罰を受けるどころか、とっても良い生活をしている。その時、受ける資格がないのに沢山の良き物を一方的に受けているということに目が開かれ出すんです。
そして、当番の兵士に謝り、決闘場では相手に銃を撃たせて自分はピストルを捨て、そして,相手に対して抱擁しながら自分の内側に起こった変化を打ち明ける、そういうシーンがあるんですね。
恵みとは何でしょう。罰を受けるべき者なのに罰ではなく、罰どころか神の一方的な愛と祝福を受けているという事実なのです。つまり、自分が今生きているのは決して当たり前のことではなく、奇跡的に生かされているということなのです。
そして、この恵みはあなたにも注がれています。神はあなたを愛し、あなたを今まで生かしてこられました。神の一存があなたを生かして今日まで至ったのです。あなた神の恵みを受けておられるのです。

義と認められる

第3に、キリストがくださるのは義と認められるという立場です。
キリストの犠牲の故に、キリストを信じるすべての人には一度も罪を犯したことがないものであるかのような立場が与えられるのだというのです。
つまり、神はあなたのすべての罪を一切合切、永久に忘れてくださるのです。神が探してもどこにも見つからないように罪を処分してくださった。そのように罪を処分された人として神の前に立つことが出来るのです。
どうぞ、あなたも救い主イエス・キリストを信じてください。そして,この恵みを受け取り,神様の子供となられてください。心からお勧めいたします。


使用CDジャケット
レーナ・マリア:Amazing Grace

今日のみことば
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、
神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
(ローマ3:23-24)