ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
ところで、来年はロシアの文豪ドストエフスキーが生まれて200年だそうです。それで、現代人にも読みやすく訳された新訳ドストエフスキーのシリーズが、手堅く読者を獲得しているそうです。
彼の作品に登場する人物は、非常に緻密な性格描写がなされています。それが作品にリアリティーをもたらしています。これには理由がありました。彼の死後、大量のノートが入った二つの箱が発見されたのです。そのノートは彼が生前書き留めていた、人間観察ノートだったのです。ドストエフスキーは外出するときにはいつでもこの小さなメモ用ノートを持ち歩き、興味深い人物と出会うと、それがレストランでも賭博場でもその場で特徴を記録していたといいます。外見、服装、しぐさ、くせや年齢、職業などを推察しながら、細かく記録し、新作に取りかかるたびにこのメモを見ながら登場人物のイメージを膨らませていったのです。彼の小説の登場人物にリアリティーがあったのは、実在の人間に対する徹底的な観察にあったのです。
ところでドストエフスキーにも決定的な影響を与えた聖書は、小説ではなく歴史書であり、預言書です。そして聖書のことばに現実的な迫力が伴うのは、創造主についての精密で、正確な記録で満ちているからです。
聖書はこう語っています。
私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。
ここから創造主なる神とはどのような方なのかを、三つのポイントでお話ししましょう。
トーマス・マンの兄
第一に、神はあわれみ深い父です。
ドイツの作家でノーベル文学賞作家となったトーマス・マンがいます。名前を聞かれた方もいることでしょう。実は彼にはお兄さんがいました。ハインリッヒ・マンという人です。名前を聞いたことがある人はほとんどいないと思います。でもこのお兄さんも作家だったんです。
しかし評価は、兄弟で全く違いました。圧倒的に弟の方が高かったんです。二人の考え方はかなりな部分で違っていました。対立することも多く、八年間も仲たがいしていたことがあります。さて、このハインリッヒ・マンの作品に、『打ち砕かれたバイオリン』という短編があるのです。これは作者が50代半ばになってから子供のころを思い出して書いた自伝的な連作短編なのです。
『打ち砕かれたバイオリン』
ストーリーはいたって単純です。主人公にはひとつ、とっても大切にしていた宝物がありました。それはバイオリンです。作者である少年は、正式にバイオリンを習ったことはありません。しかしバイオリンが好きで好きでたまらないんです。下手は下手なりに毎日練習しています。
学校になかなかなじめなかった少年にとって、家に帰ってバイオリンにさわることだけが楽しみでした。ところがあるとき家に帰ると、年の離れた弟が勝手に弾いているんです。バイオリンを入れたテーブルの引き出しは、小さい弟には手が届かないのです。家の中の誰か大人が出してやったに違いない。しかし自分の宝物が許可なく弟に渡されたのを見た少年は、かんしゃくを起して怒鳴り散らすんです。
「いったい誰がバイオリンを出したんだ。勝手なことをして何だ」とわめき散らすのです。弟は口を割らず、お手伝いさんも何も言わず、お母さんは全く無視します。そして、無視することでかんしゃくを起こしている少年に罰を加えているのだ、と本人は思うのです。
そのことでますます少年は怒りました。彼が特に怒りを爆発させたのは、お母さんが少年ではなく、少年の弟の方を守ったからです。
正義感の強い少年は、ねたみ、苦しみ、とても傷ついたのです。そしてこの日を境に少年は、バイオリンを弾かなくなります。ある日学校から帰ると、バイオリンは無茶苦茶に壊れて床に散らばっていました。そのとき少年はやっと泣くことができたのです。それまで少年は、泣いたことがなかったのです。というのは、年下の子がやったことで年上の子が泣くようなことは、あってはならないと思っていたからです。しかしもう限界です。彼はただ泣いていました。すると自分の首のまわりに、優しい腕があてがわれているのを感じたのです。それはお母さんの手でした。
お母さんは自分を抱き寄せ、優しい口調で少年をいたわったのです。次の瞬間、少年は突然、優等生の心境に変わります。そして「僕の振る舞いはなんて幼稚だったんだろう」と反省するのです。
あわれみ深い神がおられる
あんまり急に物分かりが良くなったので、読んでいる読者はついて行けません。しかし本当にそう思ったというのです。理由は明らかです。今までずっと弟に取られたと思っていたお母さんが、自分のところに戻って来て、愛情を注いでくれたからです。
彼は一番大切な人からの愛で満たされたので、落ち着きを取り戻すことができたのです。人は愛に満たされていないと、イライラし、攻撃的になり、理屈っぽくなり、ひねくれた考えに陥りやすいものです。どうしてそういう人が多い世の中になってしまったのでしょう。あわれみ深い神を忘れているからです。
神は今日、理不尽なことで泣いているあなたに対して、御腕をまわしてねぎらっておられる方なのです。
神は慰めに満ちた方
第二に、あらゆる慰めに満ちた方が神です。
ところで、聖書が語る本来の慰めの意味は、「そばにいて味方になる」という意味です。
ベートーベンは耳が聞こえなかったということは有名な話ですね。ただ、晩年になって聞こえなくなったと思っている方が多いと思います。しかし実際は26歳くらいから聞こえなくなっていくのです。ピアノソナタ第8番ハ短調「悲愴」は1798年から翌年にかけて、ちょうど難聴がひどくなった時期の作品です。この作品に「悲愴」と名づけたのは、ベートーベン自身です。それがそのときの彼の心境だったのです。悲愴の作品番号は13です。ベートーベンの作品番号は138までありますが、耳に全く問題ない状態で作曲されたのは、作品1だけだと言われています。つまり彼はほとんどすべての作品を、難聴と戦いながら作り続けたのです。
ところでこのころ、彼は自分の悲しみや苦しみを、親友のカール・アメンダーに書き送っているのです。カール・アメンダーは牧師でした。そのカールに対して、「自分は創造主である神を何度ものろった」と告白するのです。つまり彼はこの友人に対しては、少しも飾ることなく、魂の叫びをそのままにぶつけているのです。そしてそのうっぷんを聞かされたカールは、その怒りを黙って聴くことに徹したのです。そうすることで絶望に落ちて行くベートーベンに、自分はどんなときでもいつまでも変わらないあなたの側に立つ味方なのだということを、示したのです。いいときだけではなく、悪いときも見捨てたりしない友達の存在が、彼をどんなに勇気づけたことでしょう。そして彼に、創作へのエネルギーの後押しとなってくれたのです。神とはそのような方です。あらゆる慰めに満ちた方であるからです。
キリストを与えてくださった
第三に、神は主イエス・キリストの父なる神です。
この偉大なる神はあなたを愛し、あなたの将来を思い、あなたの罪を赦し、あなたの人生を完成するために、ご自分のひとり子であるイエス・キリストを与えてくださった方です。これ以上の大きな犠牲、大きな愛はありません。
どうぞあなたもイエス・キリストをとおして、あなたの造り主なる神様のところに帰ってください。心からお勧めします。
(2コリント1:3)