#1052 砕かれた心で神を見上げる


メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

さて作家の井上ひさしさんは、人の心に届く文章を書く秘訣についてきかれたとき、こう答えています。「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことをまじめに書く」。
なるほど、私もそのようにしたいなぁ、と思うと同時に難しいなぁとも思うのです。そして、深淵なる真理を誰にでもわかる言葉で説明されたイエス・キリストのことを思わずにはおれませんでした。
あるときキリストは、神が人に求めておられる態度を説明するために、たとえ話をされたのです。
二人の人が神殿に行って祈るのです。一人はパリサイ人と言われる宗教家です。もう一人は悪人のレッテルを張られている取税人です。宗教家の方は心の中でこんな祈りをしました。
「神よ、私が他の人達のように奪い取る者、不正な者、姦淫する者ではないこと、あるいはこの取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから十分の一を献げているからです」。
対照的なのは取税人です。彼は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神様、罪人の私をあわれんでください」。
この二人を並べて紹介した後で、キリストはきっぱりと言われたのです。「義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです」。
三つのポイントで、神が求めておられる態度は何なのかということを考えてみましょう。

人間の行いでは救われない

第一に、神の恵みは、ほれぼれするような立派な行いで勝ち取ることはできないということです。
パリサイ人の言っていることは嘘ではありません。彼は非常に戒律的な生活を、厳格に守っていました。
ユダヤ人の律法によると、年に一回断食することが命じられていますが、彼は週に二回も断食しているのです。またユダヤ教の律法では、収穫物の十分の一を献げるように命じていますが、彼は自分の庭に生えるハーブ類にいたるまですべて十分の一を献げていました。それは非常に禁欲的で、道徳的で、真面目で、苦行を伴うものでした。
一体どこが間違っているんでしょう。神の愛を人間の難行苦行で勝ち取れる、と考えているところです。神は人間の宗教的な行いによって買収されるような方ではありません。もっと言えば人間のどんな難行も、人間が犯してきた罪を洗い流すことなどできないのです。

罪の許しは神の行為に基づく

ところが一般的に、宗教はそれを好んで行いますね。なぜでしょう。神を、一般の世の中の考えと同一視しているからです。
この世の中では良いものを得ようとすると、苦労しなければなりません。新車を買おうと思ったら、残業せねばなりません。マンションを買おうと思ったら共稼ぎをしないと無理でしょう。何かしんどい目をすると、それと引き換えに良いものを得ることができる、というのがこの世の仕組みなのです。
しかし人が食べるのを我慢したり、たくさんのお金を献金をしたりすることで、神の心がのぼせ上がるんでしょうか。そんな神は神ではありません。神は何一つ不自由しておられないからです。罪の赦しは、全くもって100パーセント神の行為に基づくものであって、人間の側の努力で勝ち取ることなどできないのです。

神の前に悔い改める

しかしながら第二に、取税人は神の前に悔い改めていたのです。
当時のユダヤ人は祈るとき、天に顔を向けて祈っていました。ところがこの取税人は、天に顔向けができない者であることを認めていたのです。
彼には神に愛される資格もなければ、赦される資格もありません。自分という人間の醜さに打ちのめされ、胸をたたいて祈っているのです。自分の中に何の可能性もないことを、そのまま神に打ち明けているのです。
ところでロケットが打ち上げられて宇宙に飛び立っていくために、無くてはならないものって何でしょう。それは打ち上げるための発射台ですね。神は私たちに偉大なことをしてくださるためにも、私たちの中に、なくてはならない発射台が必要だというのです。それは何でしょう。大きな信仰でしょうか、立派な働きでしょうか、超人的な勇気でしょうか。違います。私たちの弱さです。
神の力は小さな私たちの中に現れるのです。自分の罪が赦されるために、私にできることは何一つないということを認める、その心こそが発射台となるのです。この取税人は神の前に、自分のみじめさ、非力さを嘆いています。しかし神はこの心を、この上もなく愛されるのです。

神はあなたを愛している

第三に、この取税人は自分の弱さを嘆いて終るのではなく、神のあわれみに訴えているのです。
自分を見てがっかりした後で、神に目を向け直して「私にはあなたの恵みと赦しが必要です」と訴えているのです。キリストはおっしゃいました、「この人が義とされました」と。
実は神様という方は、罪人を赦したくて赦したくて、うずうずしている方なのです。神のあわれみとは具体的にはどういうことでしょう。私たちの罪のために、キリストが代わりに死んでくださったこと、そして墓に葬られたこと、そして三日目に復活されたことをただ信じるだけで、完全な罪の赦しを与えてくださることです。
著名な神学者カール・バルトという人が、昔シカゴ大学を訪れると、学生や学者たちに取り囲まれたのです。そして記者会見で質問が出ました、「バルト博士、御研究から学んだ聖書の中で、最も深遠な真理をひとことで言えばどのようになりますか」。
彼はためらうことなく答えました「イエスは私を愛しておられます。私はこのことを知っています。聖書がそう語っているからです」。これは有名な讃美歌、「主われを愛す」の一番の最初の二行の詩です。
この点において、私もバルト博士に賛成します。主はなたを愛してくださいました。また、あなたが神を信じていなくても、罪の中にもがいていても、キリストに反対している最中であっても、すでに神はあなたを愛し、あなたのためにすべてを準備してくださったのです。
どうぞあなたも、無条件の愛であなたを愛して、あなたが帰って来るのを首を長くして待っておられる神のもとに帰ってください。イエス・キリストを信じることが神に帰ることです。心からお勧めいたします。


使用CDジャケット
戸坂純子:主われを愛す

今日のみことば
あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。
(ルカ18:14)