ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて、今年の1月29日、EUの欧州議会で日本人がよく知っている歌が議員全員の合唱で歌われました。『蛍の光』です。
実はこの日、イギリスのEU離脱協定が、欧州議会で可決されたのです。ヨーロッパの議員たちは、イギリスへの惜別の思いを込めて、手をつないで合唱したそうです。
日本でも『蛍の光』は別れの歌として定着していますね。卒業式から船の出港、ショッピングセンターの閉店時間を知らせる合図として全国で使われています。
ところが、この曲の元となった『Auld Lang Syne(オールド・ラング・サイン)』の元々の詩は別れの歌ではないのです。友人との長い付き合いを祝して、「さあ、杯をかわそう!」と呼びかける歌なんです。つまり「一緒に過ごそう!」という歌なんですね。それがいつの間にか、お別れの歌となって世界に広まってしまったのです。
私たちが知ってると思っているものの中には、本来の意味が逆転してるものがありうるんですね。私はその筆頭は聖書だと考えます。というのは、多くの方にとって聖書は宗教の経典で、堅苦しく、重苦しく、しんどい本だと思われているからです。
しかし、聖書は呪いの本ではなく、祝福の言葉です。宗教の本ではなく、神が人に伝える喜びのニュースなのです。聖書にはこのようにあります。
どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。
ここに、希望の神がくださる3つの賜物が語られています。
信頼に値する赦し
第一に、信仰による平安です。
神はいかなる罪人をも完全に赦す救いを、イエス・キリストによって用意してくださいました。キリストは十字架の上で「完了した」と宣言なさったのです。
いったい何が完了したのでしょう。あなたの罪を完全に帳消しにする御業が完了したのです。
学生時代、私はバイトで買ったアコースティックギターを友人に貸したことがありました。一月たっても二月たっても返してくれないんで、とうとう取りに行ったら、「すまん!許してくれ!実は立てかけていたギターを倒して、ネックが完全に折れてしまった」と言うのです。
一瞬息をのみましたが、私はいつになく紳士的な態度をとることができました。「それならそうと、はよ言うてくれたらいいのに。分かった、許すよ。」
実は彼にギターを貸す直前に、滅多に手に入らない高級ギターを、友人から破格で譲り受けていたからです。
しかし、問題はこの一件を境に、その友人が私と距離を取り出したことです。彼はどこかでばったり会う度に「すまなかった、悪かった、許してくれ」と口にするのです。私が「気にすんなよ」と言っても、気にしているに決まっていると考えてるんですね。
彼には平安がありませんでした。私の許しを信じることができないからです。それで追加の謝罪を繰り返して言うんですが、私もそれを聞くと、だんだん彼に会うのが嫌になってきたのです。
しかし、神がしてくださった赦しはパーフェクトで、本当に信頼に値するものです。
名工が名人芸で仕上げた作品に、私が追加で何かの工作をしたり彫刻を入れたらどうなりますか。傷物になって価値を失ってしまうのではありませんか。
キリストは完全な償いをあなたに代わってしてくださったのです。なので、それに追加で何かを加える事は、キリストの赦しを台無しにすることなのです。キリストの赦しは完全です。なので、信仰によってそれを受け取る時に、完全な平安を受け取ることになるのです。
信仰による喜び
第二に、信仰による喜びです。
先日私は、川越宗一さんの喜びの記事を読んで心がホカホカしました。川越さんは今年の直木賞を受賞された作家です。なんと小説二作目でビッグタイトルを取ったんですね。その記事にはこう書いてありました。
「振り返れば僕の人生は行き当たりばったりとしか言いようがない。フワフワした少年時代を過ごし、中学では『君は聞き分けがないから自由な校風の高校へ行ったらいい』と先生に勧められてそのようにし、浪人までして入った大学にはほとんど通わずにやめ、モラトリアムにしがみつくように、30歳までバンド活動に時を費やした。とある企業に拾ってもらって救い出されると、サラリーマンになり、4年前に新しい趣味位のつもりで始めた小説執筆では、いつの間にか対価を得るようになった。行き当たりばったりで倒れ込んだ先に直木賞をいただいて、今の実感は不思議の一言に尽きる。信じられない。2週間経った今でも信じられない。と同時に、人生を振り返ったとき、感慨深いものがある。両親のおかげで子供の時食うのに困らなかった。先生の勧めで入った高校は楽しく、大学では僕なりに良い経験を積み、社会性に欠ける僕をバンド活動にまつわるいろんな人が10年近く面倒みてくれ、サラリーマン時代でもたくさんの人に助けられた。フワフワした僕なりに抱いていたモワモワは、誰かが考え出した小説と言う表現方法のおかげで解消し、誰かが作った出版会社の仕組みのおかげで、本が世の中に出て売ってもらえた。」
彼は、自分の栄光は自分以外の誰かに支えられたということを心から感謝してるのです。私はそれを読みながら、謙遜な方だなぁと感心するとともに、私自身も自分の人生を振り返って、同じように本当にたくさんの人に助けてもらって来たなぁと思い返さずにはおれませんでした。そしてそれらすべての出会いの背後に、良きことをなさる希望の神がおられたことを知るのです。
信仰による喜びは、恵み深い神がいつでも、どこでも、どんな時でも、自分を省みてくださっていると信じるところから生まれてくるものです。
それは妄想ではありません。実在する神の約束なのです。
希望が用意されている
第三に、神が用意しておられる希望です。
希望である以上まだ実現していません。しかし、神はキリストを信じる者に、死後には天国、そして生きている間には、キリストが再び来られるという素晴らしい希望を用意しておられるのです。
ルターの生まれた家に、彼が語ったと言われているある言葉が記念碑として据えられています。実際のところは、それを裏付ける証拠は無いのですが、それはともかくこんな言葉です。「たとえ明日世界が滅びようとも、今日、リンゴの木を植えよう」不思議な言葉です。
明日世界が滅びてしまうならば、植えることにどんな意味があるんでしょう。植えられた木も世界の滅びとともに消えてしまうのであるならば、まさに無意味です。
しかし、この言葉には前文があります。それは、「死は人生の終末ではない。生涯の完成である。希望は強い勇気であり、新たな意志である。」自分の命の終焉があっても、その自分の不完全な人生を補って、完成してくださるキリストがおられる。
たとえ世界が終わりを迎えても、決して滅びることのない希望がある。この世界の終わりの次に、新しい世界を造るキリストによる希望です。だからこそ、がっかりする事はない。未来は神の祝福につながっているのだという希望が、聖書の提供する望みなのです。
クリスチャンとは、一番良い事は、未来にとって置かれているということを約束されている人です。
どうぞあなたも、キリストによって希望の神に立ち返ってください。心からお勧めします。
(ローマ15:13)