#983 イエスを主と告白する

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

ところでイングランドでは緊急電話は999です。日本では警察には110番で、消防には119番ですね。
世界中どこでも短い数字でかけることができます。すぐにつながるためですね。
同じように聖書にも神への緊急電話番号があると、ある方が言ってました。
8038の333です。これはエレミヤ33章の3節を語呂合わせにした数字です。そこには何と書いてあるんでしょう。

わたしを呼べ、そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。

この個所は、神を呼び求めるなら、神は必ず聞いてくださるという、約束のことばなのです。

神を呼ばわる方法

では、具体的に神にどのように呼ばわればよいのでしょう。
今日はまだイエス・キリストを信じていない方のために、神を呼ぶ呼び方をお知らせしたいのです。
それはローマ人への手紙10章9節に書いてあります。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。

ここから、三つのポイントで神を呼ばわる方法についてお話いたしましょう。

神はあなたを愛している

第一に、創造主なる神は、イエス・キリストをあなたの罪の身代わりとして、十字架の上で罪のさばきを下されたことを信じるのです。
神は死ぬ必要のないキリストを、死者にされました。それは死ぬべきあなたの代わりとするためなのです。
そして神がイエス・キリストを死者にされたその動機は、あなたを愛するがゆえのことなのです。
つまり神はイエスを死者にされたと信じるのは、神はそれほどまでに私を愛してくださったのだと信じることなのです。
神があなたに、何よりもしっかりと覚えて欲しいと願っておられることばは何かご存知ですか。
「立派になりなさい」「もっと頑張りなさい」「もっと努力しなさい」でしょうか?
神様に助けてもらうためにはそうしなさい、と聖書に書いてあるでしょうか?
そんなことはどこにも出て来ないんですね。
神が私たちにしっかりと覚えて欲しいと願うことばは単純です。「私はあなたを愛してるよ」です。

神の愛の証拠:十字架

世界で最初の女性、エバに対して悪魔がささやいたことばを要約すると「神はあなたを愛してなんかいないよ」です。
これは人類にふき込まれた、最初にして最低最悪のウソです。
しかし「愛しているよ」という神のことばは、このひどいウソを打ち砕いてくれるのです。
このウソが崩れると、人は神を信じられるようになるのです。
神はあなたを愛しているということを、口先だけにしないため、行動であらわしてくださいました。
ご自分のひとり子イエス・キリストを、十字架の上で死者とされたのです。
それはあなたのためです。それを信じることです。

本物の救い主の証拠:復活

第二に、神はイエスを死後三日目によみがえらせてくださったことを、あなたの心で信じるのです。
あなたにとって、もしそれが信じがたいことだとするなら、それはあなたの考える神が小さすぎるからです。
聖書が語る神は、全知全能の神です。何でもできる神です。そして約束を守る方なのです。
この神は、救い主の死と復活をかねてから約束しておられました。
そして神は約束通り、イエスを死者の中からよみがえらせてくださったのです。
それが全能者にして、約束を守る神にとって、ふさわしいことであったからです。
ここでクリスチャンの立場で言わせていただくなら、はっきり言ってキリストの復活より、キリストが死者となったことの方がよっぽど奇蹟だと思います。
神の御子が死なれることの方が、はるかにあり得ない犠牲だからです。
いずれにしてもキリストはよみがえり、その姿を弟子たちの前に繰り返しあらわされ、そして40日間にわたって折にふれて姿を見せられたのです。
キリストの復活こそは、弟子たちにとって希望でした。
これによってイエス・キリストが、本物の救い主であることを、論より証拠で得心せられてしまったからです。

邪険に扱われる経験

第三に、あなたの口でイエスを主と告白することです。
昨年、「母さんがどんなに僕を嫌いでも」という実話エッセイが映画化されたのでした。
これは歌川たいじさんが自分の半生をつづったコミックエッセイが元になっています。
彼は仲の悪い両親の二番目の子として生まれたのです。
お母さんは少年たいちゃんにとって、あこがれの的でした。
というのは道行くだれもが、振り返るほどの美人で、カリスマ性があり、いつも取り巻きができるほどの人気者だったからです。
ところがこのお母さんは、なぜだかたいちゃんを邪険に扱うのです。
彼が五歳の時、お母さんは、彼のお姉さんだけを連れて家出をします。
彼はいざとなったら見捨てられるという経験を、幾度も繰り返して育つんです。

豚のように思える生き方

そんな彼がひねくれずにおれたのは、両親が経営する工場の従業員のおかげでした。
その中に年配の女性がいて、いつもたいちゃんのことをかわいがってくれたんです。
お母さんからは受け取れない愛情を、このばあちゃんが注いでくれたんですね。
しかし両親はたいちゃんが十歳の時に離婚します。お母さんはふたりの子を連れて家を出ます。
そして慰謝料でレストランを経営するのです。ところが妙な男性が入り込むと、レストランは飲み屋に変わります。
お母さんは男性をくるくると変え、ひどい別れ方をし、そのたびに凶暴になり、そのしわ寄せはたいちゃんにふりかかって来るのです。
ある時、キレたお母さんが包丁でたいちゃんの頭を切りつけてきました。腕でしのいだものの、深手を負ったのです。
このままでは殺されると思った彼は、十七歳で家出をし、東京食肉市場で働きます。
そこでは生きた牛や豚が運ばれ、二枚におろされた肉を水で洗い流す仕事をしていました。屠殺前の豚を見てると、まるで自分とそっくりに思えと言います。
なぜなら、少しも大切にされないいのちだからです。
彼は、自分は豚のような生き方をしていると思ったのです。

僕は豚じゃない

そんなある日のこと、父の工場で働いていた人とばったり会い、たいちゃんをかわいがってくれたあのばあちゃんが、末期がんだと知らされるのです。
見舞いに言った彼は、近況報告をしました。そして自分は豚同然で、何をやっても全体的に豚みたいなんだよね、と自虐ネタを披露するのですが、ばあちゃんは少しも笑わないのです。
「たいちゃん、苦労したね。でもたいちゃんはきっと幸せになれるよ」
「そうかなぁ」
「なれるよ。ばあちゃん、一つタイちゃんにお願いがあるから聞いて。『僕は豚じゃない』って言って」小さな声でそう言うと
「もっと大きな声で、はっきりと言って」
「僕は豚じゃない」、そう言うと、止まらなくなったそうです。
これこそ自分が心の底から言いたいと思っていたことだということを、言いながらにして気づいていくのです。
「僕だって大切にされたい」「尊厳あるものとして扱われたい」、この告白が、彼の人生を変える大きなステップとなって行くのです。

高貴なものとして生きる

ところで、自分には罪人の人生が似合っていると、あきらめている方はいらっしゃいませんか。
そんな方に神は、一つのことを願っているのです。それはイエスを主とするということです。
イエスを主と告白することです。
どんな人の中にも、高貴なものとして生きたいという願いが、必ず宿っているものです。
イエスを主とするとは、最も高貴な方に所属するということです。
最も高貴な方のものとして生きますという、宣言なのです。
そしてこの告白をする者は、罪と死から救われるのです。
どうぞあなたもイエスを主と告白し、あなたの心でイエスを自分の救い主として、信じ受け入れてください。心からお勧めします。


使用CDジャケット
吉田恵子:主と共に歩む

今日のみことば
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
(ローマ10:9)