おはようございます。慶相龍です。
今をときめくボクシング選手といえば井上尚弥さん。ここ2試合の合計時間は182秒。
そんな短い時間で現役世界チャンプともう一人の元世界チャンプを倒した、まさにモンスターという異名に相応しい活躍ぶりです。
ところで、今をときめくスターの出現と同時に特に大阪に多く出現する人たちがいます。
それは、「あれ、昔、オレが世話見たったんや」とか「あれ、オレが育てたんや」とか言う人たちです。
実は “あれ” “オレ” と言って嘘をつく人のことを “あれオレ詐欺” と言うそうです。
あれオレ詐欺には冗談と笑ってすませるものもあれば、人の手柄を横取りしようとする陰湿なものまで様々です。
自分の価値は他人の評価で決まるという思い込みが、実際の自分よりも優れた自分をアピールしようと思わせ、人にあれオレ詐欺をさせてしまうのでしょうか。
しかし、人による評価は人のある点が比較的優れているという評価であり、その人の存在価値そのものを決定するものではありません。
では、その人の存在価値とはどのように知ることができるのでしょうか。
神の絶対評価
今日の聖書の言葉です。
ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。
これは、紀元前8世紀頃に書かれた、直接的にはイスラエルに対する預言ですけれども、あなたに対する神の絶対評価というテーマで3つのことを考えましょう。
あなたの価値を知っておられる
1つ目に、聖書の神だけがあなたの価値を知っておられるということです。
日本語の神という言葉は聖書の神にも偶像の神にも使われます。
しかし、聖書の神と偶像の神とは全く異なる正反対の存在なのです。では、偶像の神とは何なのでしょうか。
聖書の中のイザヤ書46章では偶像の神についてこのように紹介されています。
『金持ちが金で細工人を雇ってそれで作られるもの。』
『人に担がれて運ばれ安置されるもの。安置されたらその場所から自分で動けないもの。』
『叫んでも聞いてくれないもの。苦しみから救ってくれないもの。』
要するに人によって作られ、人の世話がないと動くこともできない。そして、人のために何もしてくれない人より劣ったものであるということです。
人は他人の存在価値を正しく評価することはできません。
ましてや、人によって作られた偶像の神々は人の存在価値どころか人のことを何も知らないのです。
それに対して、聖書の神は天地万物を造られ、人間を造られた創造主です。
人に運ばれるものではなく、人を最善のご計画へと運ぼうとされる方です。
人に世話されなければ存在できないものではなく、あなたという人が存在するために今もあなたに働いておられる方です。
そして、あなたを苦しめる死の恐怖からあなたを救ってくださる方なのです。
人間存在の根本原因である聖書の神だけがあなたという人の本当の存在価値を知っておられる方なのです。
あなたはかけがえのない存在
2つ目に、神にとってあなたはかけがえのない存在です。
神は罪のために滅亡に向かっているイスラエルに対し、「それでも、わたしは背負う。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」とおっしゃっています。
同じく、罪深い私たちに対し、「それでも、わたしは背負う。」と仰せられる方なのです。
有名な話ですが、脳性麻痺のために手足を自由に動かせず、言葉も話すことができない一人の少年が特別支援学校の先生の助けを借りて母親に詩を作りました。
抜粋を紹介したいと思います。
“ごめんなさいね、お母さん。ごめんなさいね、お母さん。ぼくが生まれてごめんなさい。ぼくを背負う母さんの細いうなじにぼくは言う。ぼくさえ生まれなかったら、母さんの白髪も無かったろうね。大きくなったこのぼくを背負って歩く悲しさも。”
これを読んだお母さんはすぐ次の日に返事として詩を書きました。
“いつまでたっても歩けないお前を背負って歩く時、肩にくい込む重さより、歩きたかろうねと母心。「重くはなぁい?」と聞いているあなたの心が切なくて、私の息子よありがとう。”
少年はお母さんに背負ってもらっている光景を思い浮かべながら、お母さんに迷惑ばかりをかけていると自分を卑下します。
それに対し、お母さんは少年を背負っている時も、我が子に対する慈しみと切ないほどの愛おしさで心が溢れていることがこの詩には表現されています。
少年はこれから約2ヶ月後に不慮の事故によって亡くなってしまうのですが、それまでの間、お母さんはこの少年を何度も背負ったことだろうと思います。
さて、神はあなたが白髪になってもどこまでもあなたを背負うと仰せられる方です。
少年がどれほど自己卑下に陥ったとしても、母親にとって少年は愛と慈しみをもって背負うべき存在であったのです。
同じように、自己卑下したとしても神にとってあなたはそのままで背負って罪とその裁きから救うべきかけがえのない存在なのです。
永遠の天国で生きるべき存在
3つ目に、神にはあなたを背負って運ぶ行き先があるということです。それは、永遠の神の国、天国です。
実は、先ほどのお母さんの詩には続きがあるのです。
“あなたの姿を見守ってお母さんは生きていく。脳性麻痺の我が息子、そこにあなたがいる限り。”
この詩に対して少年が返事の詩を書きました。
“ありがとう、お母さん。お母さんがいる限りぼくは生きていくのです。脳性麻痺を生きていく。”
お母さんにとって脳性麻痺のこの少年は、自分の命にも等しい価値を持つ存在だったのです。
そして、お母さんのこの愛に勇気を得て少年はお母さんと共に脳性麻痺を生きていくと力強く感動的に表現しているのです。
これこそ、お母さんが望んでいた言葉に違いありません。
神はあなたを愛しています。神はあなたという存在にご自分のいのちに等しい価値を認め、あなたの罪のために人となって十字架で死によみがえってくださった方なのです。
あなたはイエス・キリストを救い主として信じ、罪赦されて、神の国で永遠に生きていくべき存在なのです。
あなたは神にとってかけがえのない愛の対象です。あなたには神の御子のいのちの価値がつけられているのです。
あなたは神と共に今を、そして、永遠の天国で永遠に生きていくべき存在なのです。これが、神のあなたに対する絶対評価なのです。
イエス・キリストを信じ、罪赦され、あなたに対する神の絶対評価通りの祝福をお受けください。心からお勧めいたします。
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。
(イザヤ46:3-4)