おはようございます。高原剛一郎です。
ロシア語の通訳者にして作家の米原万里さんは少女時代チェコスロバキアのソビエト学校に通っていました。
そこは世界中から集まった子供たちが学ぶ学校でした。
そして、あるときその学校で林間学校があったのです。そこで子供たちがそれぞれ自分の国のおとぎ話を披露することになったのです。
彼女は『おむすびころりん』の話をしました。働き者のおばあさんが川に洗濯に行って、おむすびを食べようとしますが手元がくるっておむすびがコロコロ転がっていくという話ですね。
ところで彼女はその話をしてるうちにおむすびが無性に食べたくて食べたくて仕方がなくなるのです。
話が終わった後も頭の中はおむすびのことだけです。とうとうその晩一睡もできなかったそうです。そして、母国のお母さんに頼んで、2週間後の参観日におむすびを持って来てもらったと言うのです。
世の中にご馳走と呼ばれるものは沢山あるでしょう。しかし、日本人の彼女にはおむすびこそはおふくろの味なのです。
そして、彼女に限らず誰もが故郷を思い起こさせてくれる物を欲求してやまない性質を持っているように思うのです。
自分のルーツを知りたい欲求
先日ニュースで自分の生みの母親を探す50代男性の事が報道されていました。
実は彼は生まれた大学病院で赤ちゃんの取り違えをされ、赤の他人の女性を母親と思って育てられてきたのです。
しかし、全く似ていないのです。血液型でもこの育ての母から生まれてくるはずがないことが明らかでした。
念のためにDNA鑑定してもらったところ親子である確率は0%でした。
彼は現在そのことによって何か不便を被ってるわけではありません。しかし、それでも自分の母親を探さずにはおれないと言うのです。
人間は誰しも自分のルーツを確認したいという欲求を持っているように思うのです。
何の脈絡もなく、湧いてくるように存在しているというイメージには耐えられないんですね。
創造主と繋がりたいという欲求
しかし、実は本人は意識していなかったとしても、もっと深い欲求が人にはあるように思います。
それはあなたを創造したお方、あなたの天の父と和解して、再び繋がりたいという欲求です。
よく「自分の人生には何かが欠けている、その何かが分からない」と言う方と私はお話しすることが多いんです。
そして、その欠けている何かを埋め合わせるために、活動的になったり、楽しいことに没頭したり、薬物やアルコールに手を出したり、ある場合は不倫に走ったりもするのです。
しかし、人が真に必要としているのは神との和解です。神こそはあなたの始まりであるからです。そしてこの神からの呼びかけのメッセージを福音と言うのです。聖書はこう語っています。
私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
ここから三つのポイントでお話しいたしましょう。
夏目漱石『夢十夜』
第一に、人は皆、真の創造主から離れルーツもゴールも分からなくなっている罪人であるということです。
夏目漱石の晩年の作品に『夢十夜』という短編小説があります。それは彼が見た夢の中でいつまでたっても忘れることが出来ない夢の記録なのです。
あるとき大きな蒸気船に乗ってる夢を見ます。猛烈なスピードで大海原を進むのです。船の上ではいろんな国の人々がそれぞれ楽しんでいます。
しかし漱石は不安でたまらないのです。目的地が分からないからです。それで船乗りに聞くんですね。
「いつも太陽が沈む方向に進んでいるが、西側のどこに向かってるんだ」
すると船乗りは「西の果ては回りまわって東であろう」と戯れ歌のようなことを言うのです。
つまりどこに向かっているのか、実は乗組員も知らないと言うのです。どこか二度と戻って来れないような所に刻一刻と近付いているのだと思うと漱石は苦しくてたまりません。
神に向かないところに解決はない
いっそのこと死んでしまおうかと考えていたとき、一人の外国人が近づいて聞くのです。
「おまえは天文学の知識があるか。」漱石は死にたくなるほど不安な時にのん気な星の話をする外国人が腹立たしくなります。
しかし、この外国人は北斗七星の話を始め夜空の星の不思議をひとしきり話した後で言うんです。
「これら全て宇宙天体を造られたのは神なのだ。」そして、漱石に向かって重大な質問をするのです。「お前はこの創造主を信じるか。」
しかし、漱石はなぜか黙ったままです。そしてある時、とうとう船から身を投げて自殺するのです。
船から落下しながら彼は飛び降りたことを後悔しながら沈んでいくという夢なんですね。
漱石は死を恐れていました。さりとて神に心を向ける事もしなかったのです。
この中途半端な煮え切らない状態がどんなに辛いことかというのを夢で語ってるんですね。
神に向かない態度の中には何の解決もないということなんです。
神は和解を求めておられる
第二に、キリストは頑固な人間一人一人にまるで懇願するように和解の言葉を語りかけておられるという事です。
キリストは全く罪を知らない方でした。この罪を知らないキリストの上に、神は私たちのすべての罪を負わせて、私たちの代わりに裁いてくださったのです。
どうして罪の赦しのためにキリストの死が必要なのでしょう。神の正義は罪への裁きを要求するからです。
私は先日、北朝鮮に娘さんに拉致された横田早紀江さんのインタビュー記事を読みました。
「娘が行方不明になって40年、どうしてそんなに頑張りすぎるほど頑張ることがおできになったんですか。」という質問に対し彼女はこう答えていました。
「それは自分でもよく分からないことがあります。でも一つ言えるのはただ可哀そうだと言うだけでなく、悪に対する怒りがあるのだと思うのです。沢山の人がある日突然、問答無用に拉致され、次から次へと北朝鮮に連れて行かれ、何も訳が分からないうちに人生を狂わされている。そんな人生を歩まさせられている。それで本当にいいんですか。という怒りが大きい力となっているように思うのです。」
人間には罪に対する義憤、正義の怒りというものが確かにあります。
ましてや正義の神にはなおさら罪への怒りがあるのです。この怒りを完全になだめる償いをキリストがあなたに代わって成し遂げてくださったのです。
そして、この方は墓に葬られ、死後三日目に復活し、神とあなたの間に立って執り成しをしていてくださるのです。
神の和解を受け入れる
第三に、神の和解を受け入れるということです。
それは神に対して無条件降伏するということです。それは神が神であり、自分は神ではないということを認める事です。
自分にとって何が最善で、どうすることが自分を幸せにする事かということについて、神よりも自分の方がよく分かってるんだという態度を馬鹿げたものとして捨てる事です。
神の言葉のどれに従い、どれを無視するかを選り好みできるというような反抗する態度を捨てることです。
神を主権者として認め、神の最善を信じ、その上でキリストを救い主として受け入れることです。
これが神の和解を受け入れることなのです。神はあなたを喜んで受け入れてくださる方です。なぜなら、あなたをキリストによって愛しておられる方であるからです。
ぜひこのキリストを受け入れ永遠の命をいただいてください。心からお勧めします。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
(2コリント5:20,21)