おはようございます。高原剛一郎です!
作家の百田尚樹さんには、社会人になる息子さんがいるのですが、ある時、「僕は何故だか知らないけれど、名古屋と聞くと恐怖心がわいてくるんだ。」と言ったそうです。
息子さんは名古屋に住んだこともなければ、行ったこともない。名古屋でひどい目にあったことなど一度もないのに、この地名を聞くと無性に暗い気分になるというのです。
名古屋に行きたかった息子
しかし、父親である百田さんには思い当たることがありました。それは、息子さんが幼稚園に通っていた頃の話です。
その頃、百田さんはテレビの仕事で毎週名古屋に出張していたそうです。
その日の朝も、「じゃあ、名古屋に行ってくるわ」と言ったのですが、それを聞きつけた息子さんが「ボクも行く!」と言い出したのです。
幼稚園は飽きた、行きたくないという訳ですね。それより、お父さんが毎週行っている名古屋って何だか楽しそうだ。だから、自分もついて行くんだという訳です。
お母さんがダメだと言っても、「名古屋へついて行く!」と言って聞きません。
川を越えた先が名古屋
そこで、百田さんは、「分かった。お父さんと一緒に名古屋へ行こう。後ろからついてきなさい。」そう言って、近くを流れる淀川まで行ったそうです。
土手を下りると、背の高い葦が密集しています。幼稚園児の息子は必死に植物をかき分け、足元の悪い中、お父さんに食らいついていくのです。
すぐに汗だくで、靴は泥だらけ、手足は植物の鋭利な葉っぱで切り傷だらけです。
「お父さん、名古屋はまだなん?」
「うーん、もうすぐや。あの大きな川を越えたら向こう側が名古屋だ」
「どうやって川をわたるの?」
「泳ぐんや!」
その瞬間、息子さんは言ったそうです。「ボク、幼稚園にいく」くるりと向きを変えて家に戻りだしたんですね。
知らずうちにあるマイナスイメージ
この息子さんは、やがて成人し社会人となるにつれて、幼稚園時代のことをすっかり忘れています。
しかし、名古屋と聞くと潜在意識にある、あの辛い経験が引き起こした重い気持ちが浮かんでくるのです。
名古屋には何の罪もありません。ただ、名古屋の名前が悪用されたあの経験が、息子さんを名古屋嫌いにしてしまっているのです。
ところで、ある方は聖書とか、神とか、キリストと聞くと、「そんなの宗教だ。ナンセンスだ。そういう話は聞きたくない。」と拒絶反応を示されるのです。
しかも、一度も聖書を読んだことがなく、一回も教会に行ったこともなく、まだ聖書のメッセージを聞いたこともないのに拒否反応を示す方が時におられるのです。
それはおそらく、聖書に出会う前に、神とか、信仰とかいう言葉を悪用されて、マイナスのイメージを植え付けられてしまっているからかもしれません。
しかし、聖書の語るメッセージはこの世の宗教とは対極のメッセージなのです。
ヨハネの福音書6章28,29節
聖書に次のような言葉があります。
すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
今日はここから2つのポイントでお話し致しましょう。
『たいせつなきみ』
第一に、ここで語られている神とは、私たちが作った神々ではなく、私たちを造られた方。この宇宙万物を造られた作者なる方のことです。人が作った神ではありません。人をお造りになった神のことです。この方を信頼することが、神のわざを行う第一歩となるのです。
私の大好きな絵本に『たいせつなきみ』という作品があります。それは、木彫りの小人たちの物語なんですね。
この人形たちの社会には一つ変なルールがありました。お互いに才能や美しさを認めると金色のシールを貼りつけるのです。
逆に失敗したり、見栄えが悪かったりすると灰色のシールを貼りつけるんです。
その人形社会にパンチネロという人形がいました。彼はどんなに頑張っても灰色シールばかり貼られて、すっかり自信をなくしているのです。
作者がどう思うかが大切
そんなある日のこと、金色のシールも灰色のシールも全然ついていない、スッキリした少女ルシアと出会うのです。
「ああ、この子のようになりたい。」と切望するパンチネロにルシアは言うのです。「毎日、エリに会いに行くといいわ!」
エリとはこの木彫り人形を作った彫刻家です。作者であるエリはパンチネロに語りかけるのです。
「お前は気にすることはないよ。金色や灰色のシールを貼りつけているのは一体誰だか考えてごらん。お前と同じ人形たちじゃないか。
仲間同士がどうレッテル貼りしようがかまやしない。パンチネロや、大切なことはこのわたしがどう思うかなのだ。
わたしはお前のことをかけがえのない宝物だと思っているんだよ。」
パンチネロのシールがはがれる
更にこう言うのです。
「シールはお前がくっつくように仕向けているからくっついてしまうんだよ。」
「どういう意味ですか?」
「お前がシールを気にしているからくっつくんだよ。わたしの愛を信じれば信じるほど、シールなんてどうでも良くなってくるはずだ。」
パンチネロはその意味がピンときませんでしたが、やがて、エリは本気でぼくのことを大切に思ってくれていると少し理解するようになりました。
その瞬間、灰色シールが一枚ポロっとはがれて地面に落ちるのです。
圧倒的な存在の前
ところで、私は寒いのが苦手です。しかし、夜空だけは冬の方がいいですね。それは、よく星が見えるからです。
寒い夜空ほど沢山の星々がきれいに見えるような気がします。
しかし、どんなに空気の澄んだ森や山に行っても、昼間には星が見えません。
それは、昼には星が出ていないからではなく、太陽の明るさによってかき消されてしまっているからです。
太陽の圧倒的な明るさの前では星々の弱々しい輝きはみな消えてしまうのです。
どうして、人からの評価を過大に気にしたり、それによって自分を損ねたりしてしまうのでしょう。
何があってもあなたへの愛を失っていない神様から離れ去っているからではありませんか。
あなたの作者であるエリの声を聞かないからではありませんか。神なき世界観の中で生きるからではありませんか。
この神様との断絶関係が私たちに闇を呼び込ませている原因なのです。
川にはまった犬
第二に、神を信じるだけではなく、神が遣わした者を信じることが何よりも神があなたに望んでおられることなのです。
神が遣わした者とはイエス・キリストのことです。キリストこそあなたを神の前に帰らせるために、天からこの世に下って来られた救い主です。
私は先日、氷結する川を横切る途中ではまってしまった犬の動画を見たのです。
この犬は前足を氷にかけていますが、自力で這い上がることはできません。必死にもがくのですがどんどん体温が下がっていくのです。
また、犬の足は氷を歩くようにはできていないんですね。踏ん張ろうにもツルツル滑って体力を無駄にするばかりです。
そこに、消防のレスキュー隊が到着します。氷にうつ伏せになりながら、犬に近づきますが隊員は犬を掴んだ瞬間、氷が割れて犬もろとも川に落ちてしまうのです。
しかし、隊員の腰にはロープが結わえられていました。岸辺のチームが懸命にそのロープを引っ張って、この犬と隊員を救い上げたのです。
自力で戻れない、人のためのキリスト
ところで、どうして隊員がわざわざ犬のところへ出向かわなければならなかったのでしょう。
犬が自力で這い上がることができないからです。キリストはどうして天から来られたのでしょう。人は自力で神の元に帰る力がないからです。
人にはできないことを代わりに成し遂げるためにキリストが来てくださいました。
キリストを受け入れることで、あなたは罪と死の中から救われるのです。
どうぞ、イエス・キリストを心の中に受け入れてください。心からお勧めします。
(ヨハネ6:28-29)