ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私は毎日健康のために、冷やした野菜スープを飲んでます。先日もコップに半分ほど入った野菜スープを一気飲みであおりました。ところが中に入ってたのは、レモンの絞り汁だったんです。口の中いっぱいにレモン汁が満タンの状態です。その酸っぱいこと、酸っぱいこと、という話を今聞いているあなたの口の中は、唾液でいっぱいになっていませんか?あなたはレモンを口に入れたわけではないのに、つばが湧いてきましたね。なぜですか。私のことばが心に入ったからです。
ことばってすごい力がありますね。事と次第によっては、肉体の反応にまで影響を与えてしまうのですから。私は今日聖書のことばをお届けしたいと思います。聖書が一番語りたいメッセージ、福音をずばり語った箇所を紹介いたしましょう。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
このみことばに三つの専門用語が出てまいります。神と罪と救いの三つです。
神とは誰か
第一に、神とは誰でしょう?あなたをお造りになった作者のことを、聖書は神と呼ぶんですね。人間が作った神々ではありません。人間をお造りになった作者のことです。
私は数ヶ月前、家内を連れてある総合病院へ行きました。体のあちこちに病状が現れていた家内を何とか診察してもらおうとしたんです。そうして一つわかったことは、現代の病院ではそれぞれ専門分野がきっちり分かれていて、いくらドクターとはいえ、専門外の治療、診断については正確なことは言えないってことです。ですから体のあちこちに病気を持っていた場合は、あっちに診察こっちに診察と、ぐるぐるぐるぐる回ることになってしまうんですね。どうして専門分野ごとにドクターが分かれているんでしょう。それは人間の体があまりにも複雑にできているため一人ですべてのジャンルをカバーできないからです。一人ですべての専門分野を完全マスターしているドクターは一人もいません。それは人間の能力には無理なことなのです。だから消化器は消化器、循環器は循環器、泌尿器は泌尿器と細分化されているんですね。
ところで日本には実にたくさんの神々がいますね。一説によると26万6千もの神々があるそうです。どうしてそんなにたくさんあるんでしょう。各種専門分野に分かれているからです。受験については受験の神さん。できもんについてはできもんの神さん。商売繁盛については商売繁盛の神さん。それぞれ持ち場があるんですね。どうして専門分野に分かれてるんですか。人間の作った神々は所詮限界があるからです。もっと言えば、お一人で何でもできる本物の神を知らないので困ったことが起こるたんびに、新しい神々をこしらえてきたんですね。しかし、まことの神は全知全能の神、何でも知っていて何でもできる方です。そして、この方があなたをお造りになったのです。神とはあなたの命のルーツあなたの作者なる方、たましいの親といって良いでしょう。
罪ということばの意味
第二に、罪ということばです。聖書によるとすべての人は神に対して罪人だというふうに言ってます。この罪ということばの意味は、的外れっていう意味なんですね。本来の意味目的を失ったものを罪人って言うんです。今から二ヶ月ほど前のことです。ある方が私たちのために、とってもおいしいかぼちゃスープを作って持ってきてくださったんです。みんなおかわりをして、あっという間に最後の一杯分が残ったのです。いったい最後誰のものになるのか?そのとき結論が出ませんでした。それで器に入れて冷蔵庫に入れたんです。それから二ヶ月経ちました。冷蔵庫から異様な臭いががするので、私はよく中を調べてみました。するとあのかぼちゃスープがおぞましい姿になりはてて発見されたんです。表面には、くもの糸のような綿毛が繁殖しています。そしてその周りは緑色のカビが生えとるんですね。何よりとっても酸っぱい臭いががするんです。腐ってるんですね。これはもう捨てるしかありませんでした。本来健康を支えるエネルギー源として作られたスープが、健康を損ねるものに変わってしまっていたのです。
この本来の目的を果たせなくなっている状態、本来の目的を逸脱した状態を的外れ、すなわち罪っていうんです。神は人間をお造りになりました。神様の栄光を現すためです。ところが人間は神から離れ、反逆し本来の目的から逸脱し、神の前に腐ったものに成り果ててしまったのです。神のもとにそのままでは受け入れられない醜い罪、おぞましい考えを発散させながら生きるものに、変わってしまったっていうんです。どんなに寛容な人でも、腐った食べ物は捨てますね。同じようにきよいきよいきよい神は、罪あるものを、そのままでは受け入れることができません。人は罪のゆえに一度死に、そして、死んだあとにはさばきを受けることが定まっているのです。
ところが、神はこの腐りはてた人間を惜しんだのです。なぜなら、もともと愛の対象として、人間をお造りになったからです。それで神様は罪人を救うことにしました。いったいどのようにしてでしょう。イエス・キリストをあなたの身代わりにさばくことによってです。神はあなたを愛するあまり十字架の上のイエス・キリストにあなたの罪を背負わせて、まるで最悪の罪人でもあるかのように徹底的にさばいてくださったんです。私たちはみな、このキリストの自己犠牲によって罪のさばきから救われるのです。
救いとは何か
クオレという児童文学をご存じでしょう。三番目の救いを、この児童文学からご紹介したいのです。
ふるさとイタリアへ向かう船が、途中で大嵐に巻き込まれてしまいますね。そしていよいよ船が沈没するとき、あと一人しか乗り込めない救命ボートに、少女ジュリエッタを突き飛ばすようにして乗せる少年の話が出てきます。彼はみなしごのマリオという少年です。彼はこういうふうに言います。「君には君を待っている家族がいる。僕は一人ぼっちだ。だからさぁ君が乗るんだ」救命ボートに乗込めたジュリエッタを見届けながら、沈んでいく船から少年マリオは手を振り続けます。
クオレとはイタリア語で、英語に訳すとハートのことなんです。ハートというのは心ですけれど、勇気とか愛という意味もあるんですね。キリストはあなたを救いの中に入れるため、あの十字架の上で、神からも捨てられた完全孤児となった方です。そして十字架にかかりながら、あなたを待っている神のもとに帰ってほしい。あなたの本当のたましいの家族のもとに戻ってほしいと祈ってくださった方です。この方があなたのために、いのちまで捨ててくださった救い主です。そして同時に、三日目に復活してあなたの救い主となった方です。どうぞあなたも、あなたのために死んでよみがえったイエス・キリストを、救い主として信じ、それを口で告白してください。救われます。どうぞキリストとの出会いがありますように、心からお勧めしたいと思います。
(ローマ6:23)


































