ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
はい。皆様こんにちは。
何年か前、菅平のキャンプでね1人の若者が話してくれたのを覚えてるんですけどね。彼ね、剣道部なんですよ。いよいよ明日、昇段試験という時にですね。前日、夜中に公園行って練習してたらね。通報されたんです。
案の定、警官が来て「木刀振り回してどうしてるんですか?」「実はあの〜、僕、明日、形の昇段試験があって、ちょっと練習してました」って言った瞬間にね。「君、剣道をやっているのか。ちょっと下半身安定がないわな。蹲踞(そんきょ)からやり直してみよう」って言ってね、そっからね、熱血指導が始まったっていうんですよ。
皆さん、日本の剣道の最高峰って警察なんです。彼もね、警察剣道の使い手やん。「審査員はね、どのポイント見るか言うから、そこちょっと注意して」って言ってね。ほんでね、最初心配したようにね、長なったそうです。こだわりがあんねん、警察剣道やから。だけどね、「長いなぁ〜」じゃなくてね。「こんな師匠についてたらもっと上手くなったんじゃないかな?」
まぁ彼にとってその警察官の言葉っていうのはね、取り調べる者の言葉じゃないんです。疑いの目で「お前何してるんだ」という、そういう者の言葉じゃなくて、剣道の先輩が剣道を愛してる後輩に対して「こうしたらもっと上手くなるよ」というアドバイスの言葉、助ける言葉、あなたが上達するために、合格するために私が持ってるスキルを提供しますから、こうやってみたらどうなのということで、初対面なんですけれども、剣道を介して絆が生まれましてね。
イエスに近づいた人々
イエスの言葉がもし他の宗教家みたいにね「これができてないからダメ」「あれができてないからダメ」「神はお前たちのような罪人に対しては何とも思っておられないのだ。お前らは罪深い生活をして、自堕落な生活をしていて、神はお前たちのことをイライラしておられるんだ」みたいな、そういうんじゃない。この警察官が昇段試験合格のために支援したように、きよいきよい神の国に入るその合格証を授けるために必要なものは全部私が提供するから、あなた方は自分で自分をきよくすることできない。高めることもできない。神の領域まで自分を引っ張り上げることはできない。しかし、神にはあなたを引き上げることができる。あなたの罪をすべてきよめることができる。福音語ってたんです。さばき主の言葉じゃないです。断罪するための言葉ではなくて、慈しみのロゴス、福音、神の熱意から出た福音のエッセンス、これがロゴスであるイエス・キリストの口からずうっと出てきたときに「うわぁ、もっと聞きたい」みんなイエスのメッセージを聞くために殺到してる中で、イエスのメッセージを目当てに来たのではなく、別の目的で近づいてくる人たちがいたんですね。
それがマルコの福音書の2章3節
すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。
と書いてあるんですが、中風っていうのは何かと言ったらね、半身不随の状態なんです。
おそらくですね、この半身不随であるということであるならば、言葉もろれつが回らなかった可能性があります。四人の友人たちは、彼が長い間不自由な状態で人々の世話になってつらかろうつらかろうと思ってね。イエスのところに連れて行ったら立ちどころに癒やしてくださるんだ。いろんなところでイエスは奇跡を行ってるんだ。だからイエスはあなたの病気治してくれるからということで、イエスのところに連れて行こうとしたんですが、あまりにも人々がいっぱいだったので、担架かついだまま入れないんですよ。
入れないんだったら屋根はがして、上から担架ごとつり降ろして、イエス・キリストによって癒やしてもらうっていうふうにしたっていうんですよ。いや大胆ですよねこれ。私ね、これね何でこんなに大胆にできたんだろうかなと思ってね。
堂々と生きる秘訣
皆さん、堂々と生きる秘訣ってなんだと思いますか。あっちに気遣い、こっちに気遣い、遠慮して遠慮して遠慮して、本当にしたいことの十分の一くらい思い切って、やっぱごめんなさいみたいな。そうじゃなくてね、バーンってやったんこれ。
もし今、メッセージしてる最中にここがバカッて開いてね中風の人が降りてきたらね、どうします?どうしますって…。これぺテロの家なんですよね、伝承によると。だけどね、私、この大胆さ。何でこんなに大胆なことができたかと言いますとね。一言で言うとね。大義に立ってるからじゃないかと思うんですよ。大義というのは人が踏み行うべき大きな道義のことです。もし中風の人をイエスが目の前で癒やしたらどうなるか、イエスの神としての力が発揮されたということで、神の栄光になるじゃないか。そして癒やされた本人は寝たきり状態から解放されるじゃないか。そして、それを見ていた多くの人々は「すげえ、この方はメシアだ」ということで、イスラエルの中でイエスがメシアだということが明らかになるじゃないか。神にとってプラス、本人にとって人助け、イスラエルの周りの人々にとっても益しかない。大義です。
これは大義であるなら誰に遠慮する必要ありますか。私はね、堂々としていられる秘訣っていうのはね、大義に立つということではないかなと思うんです。もしね、自分の利益のためだったらこんな厚かましく…。非常識な人たちではなくてね。イエスの力が発揮される、本人にとって人助けになる、癒やされたらどんなにいいだろう。そして周りのその癒やされる瞬間を現場で目撃するこの人々の中で、イエスはメシアだということで、イスラエルの霊的回復が始まるじゃないか。誰にとっても良いのに、こんなのは遠慮していられるかということで、それをやったんですよね。
病気の苦しみ以上に深刻な問題
彼らがわざわざ上からつるして、そしてイエスにその病気の状態をお見せしたんですよね。そしたらイエスは多分こう言ってくださるだろう。「子よ、しっかりしなさい。床を取り上げて自分の足で歩きなさい。あなたの病気は癒やされた。あなたは病気から完全解放された」と一言宣言してくださったら、他の人々のケースがそうであったように、一瞬にして彼は癒やされる。その一言を待ちわびて、このように上からつるしたにもかかわらず、5節「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦された』と言われた。」これね、つり下げてる人たちにとってみたらね「えっ?」ですよ。「子よ、あなたの病気は癒やされた」と言ってくださると思ってそうしてんのに、その言葉なく、「あなたの罪は赦された。」「いや、主よ、それじゃないんですけど」って思わず言いたくなるような宣言をなぜイエスはなさったのか。
この中風の人にとって、実は肉体の病気の苦しみってのは確かにあるんですけど、彼にとっては肉体の病の苦しみ以上に深刻な問題は、罪の赦しの問題であったからです。病気の人は病気のことが最重要で悩んでることだというふうに、傍目から見たらそう判断するんですけど、でもね、イエス・キリストって方はね、後で見たらわかりますけど、ご自分の霊で心の中で人が何を考えてるのか全部見抜くことができる方です。彼が病気で苦しんでるという事実はある。
だけど、病気で苦しんでいる以上に、実は彼の内面において最も深刻な問題となっていたのは、私の罪は赦されるんだろうかという罪責感。もしかしたらその罪責感に由来してこの病気になってるかもわかんない。というのは人間の心と体っていうのは不思議に結びついてるんです。
皆さんもストレスかかったらね、なんかあちこち悪くなるんじゃないすか?頭が痛い、汗が出てくる、腰が痛い、膝が痛い、なにが痛い…。だけど、ある方が言ってましたね。「どんな頓服飲むよりもね『今日、会社休みます』って言うのが一番熱下がる」って言ってました。会社の人間関係でギューっとやられてたらね、今日、会社行かなくても良くなったというだけでね、スーッと体調がベストコンディションになるという。
ある心理学会の学術ジャーナルに大学教授の方がレポートで載せてた記事がありましたね。でも皆さん、神が一番お喜びになるのはイエスに対する信仰なんです。どんなことができるか、どんな能力があるのか、どんな実績を積んできたかではないんです。神のひとり子を自分の救い主として信じるという、神を信頼する。救い主を信頼するというその信仰を、どんなことよりも喜んでくださる方です。そして信仰をご覧になる方です。
ぜひ、このイエス・キリストを信じて、アルファであり、オメガである方とともに歩む人生の中に入ってください。心からお勧めいたします。
彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
(マルコ2:3-5)


































