
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私は先日、あるリスナーの方からこんなお話を伺いました。そこのお宅には、飼い犬がいるんですが、吠える犬なんです。お客さんの訪問があるたびに、止まらなくなるそうです。ところがこの番組を流すと静かになるって言うんです。「犬も聞いてる聖書と福音」。
さて、今日は、今の時代に最も相応しい、キリストのみことばをご紹介いたしましょう。
あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
今世界中が経済不安の只中にありますね。新聞のニュースなんかも暗い話ばかりを流しています。しかし、キリストは心を騒がせてはならないとおっしゃったんですね。心騒ぐとは心が不安でいっぱいになっていることです。実は人間はいつも三つの不安を心の中に抱え込んで生きているように思うんですね。
死の不安
三つの不安とは第一に、死の不安です。私たちはこの世にいなくなります。私たちはここに不安を感じるんですね。それは自分という存在がなくなってしまうことに対する不安です。そして、この死というのはしばしば私たちの都合に関わりなく降りかかってくるんです。
ところで、今世界の先進国が警戒している危機は何かご存じでしょうか。それは、パンデミックなんですね。パンデミックというのは、ある感染症や伝染病が全世界的に流行して、人口が大激減することなんです。実は人類は何世紀かに一回、大ダメージを与えるような疫病危機を繰り返して今までやってきました。そして、21世紀の世界は、航空機の発達によって、未だかつてないほどパンデミックが起こりやすいというふう言われているんです。これが発生したら、世界全体では1億5千万人、日本では210万人つまり阪神大震災の300倍の死者が出ると予想されています。このパンデミックに対する不安は、発生させないために人間ができることがほとんどないという点にあるんです。私たちはどういうときに不安を感じるでしょう。自分ではコントロールできないものに自分の運命が握られていると思えるときではありませんか。死というのは、いつやってくるのか自分ではコントロールできないのです。だからこそ余計に無力感に打ちのめされ、不安になるんですね。
無意味の不安
第二に、無意味の不安です。人間は誰でも、自分の存在に意味を見出したいと願っているように思います。そして、自分のやっていることに意味があると思えるとき、少々の苦労や摩擦があってもそれを続けていくことができるもんなんですね。もし自分の存在や、自分のしていることに何の意味も価値も見出すことができないなら、おそらくその人は、言われなき不安でいっぱいになると思うんです。音楽家はどうして音楽を作るんでしょう。作った作品によって他の人に良い影響を与えることができると信じているからだと思います。教師はどうして生徒に人生を使うことができるんでしょう。教育によって、何らかの良き感化を与えることができると信じているからです。それを信じれなくなったら、教育に情熱を燃やすことはできなくなると思います。そして、おそらくお辞めになるんじゃないでしょうか。人は無意味に耐えることができないのです。意味を与える方を見失っては、人間らしく生きて行けないように造られているんですね。
罪責の不安
第三に、罪責の不安です。どんな人でも喜びを持って報いられる人間でありたいと願っています。あるいは誰かから感謝される人生を生きたいと考えていると思います。そのような喜ばれる人間、評価される人間、感謝される人間になるためには、喜ばれるようなこと、評価されるようなこと、感謝されるようなことを行っていけば良いんでしょうが、しかし、人間の本性の中には、それとは正反対のことをせずにおれない破壊への衝動が宿っているように思うんです。そして、人生の中で、卑怯な行動を取ったり、不道徳な選択をしたり、触れてはならないものに触れてしまうようなことが、ままあるのです。自分でも望まぬことをやってしまうようなことがあり得るのです。そして、これが病みつきになって止められなくなる場合もあるんです。その時、自分の罪に対する責任を感じるんですね。これが罪責の不安なのです。
信頼による不安からの解放
さて、いったいどうしたらこれらの不安から逃れることができるんでしょうか。ところで、不安の反対って何でしょう。普通に考えたら、平安ということですね。もちろんそれも間違いではないと思うんです。しかし、もっと積極的な態度があると思うのです。それは、信頼です。私たちは絶対的に信頼できる方とつながっているとき、不安から解放されているからです。何があっても疑わない、何があっても裏切らない方に信頼できているとき、不安を忘れているからです。
先日私は、あるクリスチャン女性から素晴らしい報告を頂きました。彼女は自宅を開放してグループホームを経営しておられるんです。数名のお年寄りを預かってお世話しておられるんですが、そのグループホームの方々はいずれも認知症の進んだ方として入所されるんです。しかし、皆さんイエス・キリストと出会って、別人のように落ち着きを取り戻して行かれるって言うんですね。あるおばあちゃまは93才で入所されました。すでに認知が深刻だったのです。その上、とても独占欲の強い方でそのクリスチャン女性を独り占めにしたいのです。一日中「先生」とか「桜子さん」とか、勝手にその時その時で名前を付けて呼び続けるんです。ある時など「お釈迦様」と大声で呼ぶそうです。ところ構わず、朝でも晩でも大声でお経をあげるので、周りの方々もほとほと困っていたそうです。
しかし、夏が過ぎた頃から体力が弱り、そして、とうとう全く食べられなくなってしまったんです。彼女が付き添っていると、ぽつりとおっしゃったそうです。「先生私はもうすぐ死にます。今までありがとうございました」彼女は言いました。「こちらこそ長い間グループホームを利用してくださってありがとうございました。ところで、聖書には永遠のいのちについて書いてあるんですが、あなたも欲しいと思いませんか」「はい、欲しいです」「おばあちゃん、人間の不幸の原因は神様から離れているところにあるんですよ。あなたのすべての罪はイエス様が十字架の上で処分してくださったんですよ。イエス様はあなたのために死んでくださった救い主です。そして、死んだままじゃなく、復活した救い主ですよ」「私もイエス様信じたい」そして、イエス・キリストを受け入れたんですね。
その翌日、腰を抜かすほどビックリすることが起こったそうです。何とこのおばあちゃんが一心不乱に賛美歌を歌っているんです。弱っているはずの彼女がニコニコしながら長い間、賛美歌を歌って後、4日間眠り続けて天国に帰って行きました。ところでどうして賛美歌を歌うことできたんでしょう。おそらく80年以上前に聞いた日曜学校で習った賛美歌が出て来たそうです。
平安はどこから来るでしょう。絶対に裏切らない方を信頼することによって与えられるんです。どうぞあなたもキリストを信じ、永遠のいのちを受け取ってください。心からお勧めしたいと思います。
(ヨハネ14:1)