#1298 罪人を見捨てず愛されるキリスト

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

みなさま、改めまして、こんにちは。
聖書の神はあなたのことを愛しておられます。ちなみに聖書の神というのはね「人が作った神」じゃなくて「人を造った神」です。このね「人が」と「人を」と入れ替えたら、えらい違いですよ。あのさっきもね、あのマツモトキヨシという薬局に勤めてらっしゃる方が来てくださってたんですけどね。僕の友人もある薬局に勤務していましてね、ある時、高校生が来て「すいません。あのちょっと薬売ってほしんですけど」「何ですか」「母の命ください」って言ったそうです。「母の命ください。あ、命の母Aじゃないですか」母の命くださいってね、お命ちょうだいって、これ、暗殺者じゃない?それだったら「母の命」と「命の母」と全然違うやん。入れ替えるだけで。
もっと違うのが、「人が作った神々」と「人を造った神」の違いです。人が作った神々は人を助けることできません。でも人をお造りになった方は作者ですから、私たちを助けることができます。もしみなさん、車壊れたら、車のメーカー持って行ったら直してもらえるじゃないですか。パソコン壊れたら、パソコンのメーカーに持って行ったら修理していただけますよね。もし人が壊れたら、人の作者に持って行けばいいんです。この人の作者である方が、人となってこの世界に来てくださった。それがイエス・キリストという方なんですね。そして私たちはこの絶対的に信頼できる方を見失うと、自分で何とかしなきゃなんないということで不安になるんじゃないですか。

人は神に生かされている

でね、あの大阪はね、あの毎年四月の新学年新学期始まる時にね、雑巾持っていかんとだめなんですよ。一人三枚。家でね、作ったやつを学校の掃除に使うということなんですけどね。私子ども三人おるんです。で、この三人が小学生の時にね、明日から新学期いう時に限って「忘れてたあ」言ってね。「何忘れてた」「雑巾持って行くの、忘れてた」言うて。「私も忘れてた」三かける三で九枚や。で家内が「もう、そういうことは早く言ってよ」言って夜中にね、ミシン出してカタカタカタ、雑巾作るんですね。「お母さん、ごめんね。ほんとにお母さん、助かるわ」言いながら、まあ、彼女の足元でくーくー寝てます。え、何で寝れるかと言ったら、自分が寝てる間に、代わりに働いてくれるお母さんがいるからでしょう。自分では雑巾を作る力ないけど、雑巾を私に代わって準備してくれるお母さんがいるので、うっかり忘れているのに全然心騒がしてないです。全き平安のうちに、くーくー寝てるというね。
みなさん、私たちが寝てる間に私たちに必要なものを与えてくださる方。私たちを生かしてくださってる方。私たちが生きるのに必要な水や空気や太陽やそのすべてを惜しみなく与えてくださってる方。そのあなたの魂の親のことを、バイブルは創造主、あなたの魂の親だっておっしゃるんですね。この親が私を愛して導いてくださってる。この親子の関係がつながってたらいいけど、断絶状態だったら、まあ、スラム街に子ども一人放り出されるようなもんですよ。どうして心騒ぐんだろう。私のことを代わりに心配して、私を生かし、そして私を助けてくださる神を見失っているからではありませんか?って聖書は言うんですよね。この神から離れることを聖書は、罪というふうに語るのです。
聖書のテキストです。ヨハネの福音書の14章の1節です。
こう書いてます。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

私たちはどういうときに心騒がすか。それはね、自分自身の罪と向き合うときではないかなと思うんですね。

童話作家 宮沢賢治

僕はあの日本の児童作家でね、大好きな人が一人いましてね。宮沢賢治ってご存じですか。岩手県のね、花巻農業学校というところで、学校の先生なさってたんです。その学校の先生してた時に、彼よりも年上だったんですが、彼が本当に尊敬して愛した友人がいるんですよね。斎藤宗次郎という人です。その人ね、クリスチャンです。この斎藤宗次郎という人ね『雨ニモマケズ風ニモマケズ』のあの詩のモデルになった人です。
でも今日は斎藤さんの話じゃなくてね、この宮沢賢治の話で、私一つね、好きな話があるんです。実は彼は童話作家ということでね、子ども向けの本『セロ弾きのゴーシュ』とか、みなさん読みませんでしたかね、もうね、あのおもしろいよ。
あのね、この童話作家ってね、やっぱりね、子どもの気持ちがわかるんですよね。私もね、子どもの時は子どもの気持ちわかりました。でも今はね、おじさんの気持ちはわかるんですよね。それはね、子どもをやめてからずいぶん経ったからですよね。だけど彼は子どもの気持ちが良くわかるということで、村の中の子どもたちがいつでも「けんじせんせい」言うてね、もういつもね、キンギョのうんこみたいについて行くんですよ。で、もう「けんじさん、けんじさん」言うてね、もう大人気だったんですが、彼のことを慕ってる子どもの中に一人ね、盗み癖が直らない子いたんです。万引き。人が見てないと、つい、泥棒しちゃう。それで学校の先生が彼に諭したり、叱ったり、懲らしめたり、ってことでね。なんとかこの万引き癖を直そうということでやるんですが、どうやってもね、直んない。

キリストは罪人を愛された

ある時、宮沢賢治が学校から帰って自分の宿舎に家路について行く途中にね、その例の子がね、他人の畑の中に入り込んで、大根引き抜いてる真っ最中やったんです。そう、引き抜いてる、やってる最中に賢治がそれを見る。そして引き抜いてる子どもは、あ、見られた、ってわかるんです。目と目がバチッと合って。その時ね、二人とも置物のように固まったそうです。大根抜いてる方は、この状態。賢治は賢治でこの状態。お互い、見つめ合いながら、一分経ち、二分経ち、三分経ち、でその大根引き抜いてる子がね、その引き抜くのを止めて、深々と宮沢賢治にお辞儀をし、いい顔になって帰って行ったという話があるんですよね。
ここは人に見られたくないな、ていうところを見られたとしますよ。しかもその見た人が自分の尊敬する人だったとしますよ。これどんな気持ちしますかね。行方くらましたり、言い訳したり、逃げたり、隠れたりすることできたらどんなにいいか、と。ところがこの子ね、逃げ出さなかったんです。自分がやってる一番汚いことを自分が大好きな賢治先生に見られてる時、逃げることなく、隠れることなく、言い訳することなく、深々とお辞儀をして、そしていい顔で帰って行ったのは、なぜだと思いますか。おそらくね、がっかりさせるところを見たとしても、決して見捨てない人がいるんだということを生まれて初めて経験したからだと思うんです。
私たちは人前ではいいことをやりますけど、でも自分でも自分のことを軽蔑したくなるようなことを言ったり、やらかしたり。しかし、宮沢賢治はどんなに失望させるような姿を見ても、その行為そのものについてはいけないことだ、だからずっと見てたんですけどね、決して軽蔑することがなかった。捨てることがなかった。なんでわかるか。まなざしでわかるんです。
ところで、自分で自分の罪と向き合っていくとき、みなさん、私たちは元気が出ますか。しかしキリストはね、その罪人を愛して、その罪をすべて赦すためにこの世界に来てくださったんですよって言うんですよ。
ぜひ、このイエス・キリストを自分の救い主として信じてください。心からお勧めいたします。


使用CDジャケット
大和田広美:ああ愛されて

今日のみことば
あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
(ヨハネ14:1)